・・・ 慌しく丁と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗を掻探ったが、遮るものは何にもない。 さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 紫の袖が解けると、扇子が、柳の膝に、丁と当った。 びくりとして、三つ、ひらめく舌を縮めた。風のごとく駆下りた、ほとんど魚の死骸の鰭のあたりから、ずるずると石段を這返して、揃って、姫を空に仰いだ、一所の鎌首は、如意に似て、ずるずると・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ と幾度も一人で合点み、「ええ、織さん、いや、どうも、あの江戸絵ですがな、近所合壁、親類中の評判で、平吉が許へ行ったら、大黒柱より江戸絵を見い、という騒ぎで、来るほどに、集るほどに、丁と片時も落着いていた験はがあせん。」 と蔵の・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ と目許の微笑。丁と、手にした猪口を落すように置くと、手巾ではっと口を押えて、自分でも可笑かったか、くすくす笑う。「町名、町名、結構。」 一帆は町名と聞違えた。「いいえ、提灯なの。」「へい、提灯町。」 と、けろりと馬・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・「おお、五体は宙を飛んで行く、これぞ甲賀流飛行の術、宙を飛んで注進の、信州上田へ一足飛び、飛ぶは木の葉か沈むは石田か、徳川の流れに泛んだ、葵を目掛けて、丁と飛ばした石田が三成、千成瓢箪押し立てりゃ、天下分け目の大いくさ、月は東に日は西に・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げ・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫