・・・しかしそれは一個の自己陶酔、自己慰藉にすぎないことを知った。 ただし第三階級に踏みとどまらざるをえないにしても、そこにはおのずからまた二つの態度が考えられる。踏みとどまる以上は、極力その階級を擁護するために力を尽くすか、またはそうはしな・・・ 有島武郎 「想片」
・・・が、顔を見るとウンザリしてもその声に陶酔した気持は忘れられないと見えて、その後も時々垣根の外へ聞きに行ったらしかった。『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・極端に言えば、旧文化に安住している人々には、又その時代の感情に陶酔し、享楽している人々には、ほんとうの意味の詩はない筈である。 子守唄は子供を寝かしつけるための歌であり、又舟乗りの唄は、舟をこぐ苦労を忘れるための歌であり、糸とりの唄はた・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・ 感激した。陶酔した。実に良かった、という外よりはない。既にして場内アナウンスの少女の声が、美しく神秘的である。それが終ると、場内にはにわかに黄昏の色が忍び込んで、鮮かな美しさだ。天井に映された太陽が西へ傾き、落ちると、大阪の夜の空が浮・・・ 織田作之助 「星の劇場」
・・・窓のなかの二人はまるで彼の呼吸を呼吸しているようであり、彼はまた二人の呼吸を呼吸しているようである、そのときの恍惚とした心の陶酔を思い出していた。「それに比べて」と彼は考え続けた。「俺が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・恋愛の陶酔から入って、それからさめて、甘い世界から、親としてのまじめな養育、教育のつとめに移って行く。スイートホームというけれども、恋愛の甘さではなく、こうなってから初めて夫婦愛が生まれてくる。子どもを可愛がる夫婦というのはよそ目にも美しく・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・心境未だし、デッサン不正確なり、甘し、ひとり合点なり、文章粗雑、きめ荒し、生活無し、不潔なり、不遜なり、教養なし、思想不鮮明なり、俗の野心つよし、にせものなり、誇張多し、精神軽佻浮薄なり、自己陶酔に過ぎず、衒気、おっちょこちょい、気障なり、・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・「芸術的」陶酔をやめなければならぬ。始めから終りまで「優秀場面」の連続で、そうして全体が、ぐんなりしている。「重慶から来た男」のほうは、これとは、まるで反対であった。およそ「芸術的」でない。優秀場面なんて一つもない。ひどく皆うろたえて走り廻・・・ 太宰治 「芸術ぎらい」
・・・しかし、そういう陶酔も瞬時に破れた。私はふたたび驚愕の眼を見はったのである。青葉の下には、水を打った砂利道が涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。まばゆい鳥の羽を頭につけた女もいた。蛇の・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・ 回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲して礼拝三昧の陶酔的生活をする。こういう生活は少なくとも大多数の日本の都人士には到底了解のできない不思議な生活である。 ベナレスの聖地で難行苦行を生涯の唯一・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫