・・・劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱の大森林、広漠としてロシアの田園を偲ばしむる大原野、魚族群って白く泡立つ無限の海、ああこの大陸的な未開の天地は、いかに雄心勃々たる天下の自由児を動かしたであろう。彼らは皆その住み慣れた祖先・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・寒さは余りひどくなかったが、単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなしている雪が、そこら一面に空虚と死との感じを広がらせている。いつも野らで為事をしている百姓の女房の曲った背中も、どこにも見えない。河に沿うて、河か・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・満洲の広漠たる野には、遅い月が昇ったと見えて、あたりが明るくなって、ガラス窓の外は既にその光を受けていた。 叫喚、悲鳴、絶望、渠は室の中をのたうちまわった。軍服のボタンは外れ、胸の辺はかきむしられ、軍帽は頷紐をかけたまま押し潰され、顔か・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・これらの新道はそのいずれを歩いても、道幅が広く、両側の人家は低く小さく、処々に広漠たる空地があるので、青空ばかりが限りなく望まれるが、目に入るものは浮雲の外には、遠くに架っている釣橋の鉄骨と瓦斯タンクばかりで、鳶や烏の飛ぶ影さえもなく、遠い・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・橋向には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条の新開道路が、真直に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったので・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫