・・・ ところが、その家には窓が一つもなくて、ただ屋根の下の、高いところに戸口がたった一つついているきりです。その戸口には錠がかかっています。双親は、どうしてこんな家がひょっこり建ったのだろうとふしぎでたまりませんでした。ウイリイは、「こ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・そう、そう、私共のス、あの宝石の光り輝く市の王様の、たった一人娘のスを! けれども、其那工合には行きません。それは出来ないことでした。真個にそれ等の事も出来ないと云うのではありませんが、スは、水の世界パタルプールの宮殿へ生れないで、バニカン・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢・・・ 太宰治 「ア、秋」
襟二つであった。高い立襟で、頸の太さの番号は三十九号であった。七ルウブル出して買った一ダズンの残りであった。それがたったこの二つだけ残っていて、そのお蔭でおれは明日死ななくてはならない。 あの襟の事を悪くは言いたくない・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そのかわりに去年はたった一匹しかいなかったあひるがことしは十三羽に増殖している。鴨のような羽色をしたひとつがいのほかに、純白の雌が一羽、それからその「白」の孵化したひなが十羽である。ひなは七月に行った時はまだ黄色い綿で作ったおもちゃのような・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・何でも三月からなくちゃ卒業の出来ねえところを、宅の忰はたった二週間で立派にやっちまった。それで免状をもらって、連隊へ帰って来ると、連隊の方でも不思議に思って、そんな箆棒な話がある訳のもんじゃねえ、きっと何かの間違だろうッてんで向へ聴合せたん・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・だん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃくを買ってくれる家の奥さんや女中さんとも顔馴染になったりしていったが、たった一つだけが、いつまで経っても、恥ず・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・驚いて箸を持ったまま、思わず音のする彼方を見返ると、底びかりのする神秘な夜の空に、宵の明星のかげが、たった一ツさびし気に浮いているのが見える。枯れた樹の梢に三日月のかかっているのを見ることもある。 やがて日の長くなることが、やや際立って・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・盗んだ西瓜は遙かに隔たった路傍の草の中で割られた。彼等は膝へ打ちつけて割った。そうして指の先で刳っては食った。水分があとに残って滓ばかりになっても彼等は頓着せぬ。彼等には西瓜の味よりも寧ろうまく盗んだことが愉快に思われるのである。こうして汚・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・その中に先生の住居だけが過去の記念のごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている。先生はこの燻ぶり返った家の書斎に這入ったなり滅多に外へ出た事がない。その書斎はとりもなおさず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった。 余と安倍君とは先生に・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
出典:青空文庫