・・・ 町へ出ると、車内や駅や町角に、「一億特攻」だとか「神州不滅」だとか「勝ち抜くための貯金」だとか、相変らずのビラが貼ってあった。私は何となく選挙の終った日、落選者の選挙演説会の立看板が未だに取り除かれずに立っている、あの皮肉な光景を・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・ドアーの入口で待っていた特高が、直ぐしゃちこばった恰好で入ってきた。判事の云う一言々々に句読点でも打ってゆくように、ハ、ハア、ハッ、と云って、その度に頭をさげた。 私はその特高に連れられたまゝ、何ベンも何ベンもグル/\階段を降りて、バ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 明け方の寒さで、どの特高の外套も粉を吹いたように真白になり、ガバ/\と凍えた靴をぬぐのに、皆はすっかり手間どった。――お前の妹は起き上がると、落付いて身仕度をした。何時もズロースなんかはいたことがないのに、押入れの奥まったところから、・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部落があって、そこのお湯が皮膚病に特効を有する由を聞いたので、家内をして毎日、湯村へ通わせることにした。私たちの借りている家賃六円五拾銭の草庵は、甲府市の西北端、桑畑の中にあり、そこから湯村までは歩いて二十・・・ 太宰治 「美少女」
・・・僕かね、僕だってうんとあるのさ、けれども何分貧乏とひまがないから、篤行の君子を気取って描と首っ引きしているのだ。子供の時分には腕白者でけんかがすきで、よくアバレ者としかられた。あの穴八幡の坂をのぼってずっと行くと、源兵衛村のほうへ通う分岐道・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・コペルニカスの地動説が真理であろうが、トレミーの天動説が真理であろうが、そういうことは何方でもよい。徳行の点から見ても、宗教は自ら徳行を伴い来るものであろうが、また必ずしもこの両者を同一視することはできぬ。昔、融禅師がまだ牛頭山の北巌に棲ん・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・けだし心理を知る者、必ずしも徳行の君子に非ず、徳行の君子、つねに心理学に明らかなるものに非ず。両者の間に区別あるは、もとより論をまたざるところなり。本書すでに教科書の名あるからには、これによりて少年学生輩の徳心を誘導して、純良の君子たらしめ・・・ 福沢諭吉 「読倫理教科書」
・・・この筆者は警視庁の特高課から手記を出版されたパンフレットの執筆者で、モスクから脱出してきた見聞記と称して「モスク」を発表した。また、トロツキーの「裏切られた革命」を大綜合雑誌が別冊附録としたようなジャーナリズムの気風についても見のがしていな・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・ 特高が留置場へ来た。 自分を出させ、紺木綿の風呂敷でしばった空弁当がつんであるごたごたした臭い廊下へ出るといきなり、「女中さんが暇を貰いたいらしい様子ですよ」と云った。いかにも気を引いて見ようとする抑揚だ。自分はむっつ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・背広を着た特高は、私をつかまえて引こんだ小林の家の前通りの空家の薄暗い裡で大きい声で云った。「小林は共産党員じゃないか、人を馬鹿にするな!」「そうかもしれないが、それより前に、小林多喜二は、立派な文学者ですよ」「理屈なんかきいち・・・ 宮本百合子 「今日の生命」
出典:青空文庫