・・・しかし彼の眼と蒼空との間には実際そこになかった色々な物が、影のように幾つとなく去来した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがったかわからない。が、これは思わず彼が・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 僕はだんだん苛立たしさを感じ、もう一度欄干によりかかりながら、やはり人波の去来する埠頭の前後を眺めまわした。そこには肝腎のBさんは勿論、日本人は一人も見当らなかった。しかし僕は桟橋の向うに、――枝のつまった葉柳の下に一人の支那美人を発・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一切の幸福を脅すように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂かせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリ・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・と思うと、どこか家畜のような所のある晴々した眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去来した。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀願したいものを抱いていて、しかもその何ものかと云う事が、先生自身にも遺憾ながら判然と見きわめがつかな・・・ 芥川竜之介 「毛利先生」
・・・私に云わせれば、あなたの御注意次第で、驚くべき超自然的な現象は、まるで夜咲く花のように、始終我々の周囲にも出没去来しているのです。 たとえば冬の夜更などに、銀座通りを御歩きになって見ると、必ずアスファルトの上に落ちている紙屑が、数にして・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ただ、黄昏と共に身辺を去来して、そが珊瑚の念珠と、象牙に似たる手頸とを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るる如き、兇険無道の悪魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔の涙をそそがんより、速に不義の快楽に耽って、堕獄・・・ 芥川竜之介 「るしへる」
・・・それにつづけて、 二番草取りも果さず穂に出て 去来だ。苦笑を禁じ得ない。さぞや苦労をして作り出した句であろう。去来は真面目な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇・・・ 太宰治 「天狗」
・・・どす篠張の弓のような各場面から始まってうき人を枳殻籬よりくぐらせん 今や別れの刀さし出すせわしげに櫛で頭をかきちらし おもい切ったる死にぐるい見よの次に去来の傑作青天に有明月の朝ぼ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・数え切れないほど大勢の男がみんな丸裸で海水の中に立ち並んでいる。去来する浪に人の胸や腹が浸ったり現われたりしている。自分も丸裸でやはり丸裸の父に抱かれしがみついて大勢の人の中に交じっている。 ただそれだけである。一体そんな石垣の海岸に連・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・自分だけ早くから寝てもなかなか寝付かれないので、もう帰るかもう帰るかと心待ちにしていると自然と表通りを去来する人力車の音が気になる。凍結した霜夜の街を駆け行く人力車の車輪の音――またゴム輪のはまっていなかった車輪が凍てた夜の土と砂利を噛む音・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫