・・・が、一盞献ずるほどの、余裕も働きもないから、手酌で済ます、凡杯である。 それにしても、今時、奥の細道のあとを辿って、松島見物は、「凡」過ぎる。近ごろは、独逸、仏蘭西はつい隣りで、マルセイユ、ハンブルク、アビシニヤごときは津々浦々の中に数・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・が、此処で早速頬張って、吸子の手酌で飲った処は、我ながら頼母しい。 ふと小用場を借りたくなった。 中戸を開けて、土間をずッと奥へ、という娘さんの指図に任せて、古くて大きいその中戸を開けると、妙な建方、すぐに壁で、壁の窓からむこう土間・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 今度は、がばがばと手酌で注ぐ。「ほほほほ、そのせいだか、精進男で、慈姑の焼いたのが大好きで、よく内へ来て頬張ったんだって……お母さんたら。」「ああ、情ない。慈姑とは何事です。おなじ発心をしたにしても、これが鰌だと引導を渡す処だ・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 酒は手酌が習慣だと言って、やっと御免を蒙ったが、はじめて落着いて、酒量の少い人物の、一銚子を、静に、やがて傾けた頃、屏風の陰から、うかがいうかがい、今度は妙に、おっかなびっくりといった形で入って来て、あらためてまた給仕についたのであっ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・と男は手酌でグッと一つ干して、「時に、聞くのを忘れてたが、お光さんはそれで、今はどこにいるの、家は?」「私?」女はちょっと言い渋ったが、「今いるとこはやっぱり深川なの」「深川は分ってるが、町は?」「町は清住町、永代のじき傍さ」・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・その間に徳二郎は手酌で酒をグイグイあおっていた。「今さらどうと言ってしかたがないじゃアないか。」「それはそうだけれど――考えてみると、死んだほうがなんぼ増しだか知れないと思って。」「ハッハッヽヽヽヽ坊様、このねえさんが死ぬと言い・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・ 女も手酌で、きゅうと遣って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気に重ねて、「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘え瓶づめとは訳が違う。「ほめてでももらわなくちゃあ埋らないヨ、五十五銭というんだもの。「何でも高くなりやあがる、ありが・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 学士はこの家の子のことなどを親達に尋ねながら、手酌で始めた。「高瀬君、まあ話して行って下さいナ。ここは心易い家でしてネ、それにお内儀さんがあの通り如才ないでしょう、つい前を通るとこんなことに成っちまうんです」「私も小諸へ来まし・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・私は、いよいよ面白くない気持で、なおもがぶがぶ、生れてはじめてのひや酒を手酌で飲んだ。一向に酔わない。「ひや酒ってのは、これや、水みたいなものじゃないか。ちっとも何とも無い。」「そうかね。いまに酔うさ。」 たちまち、五ん合飲んで・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・ この男は見て見ぬように踊子たちの姿と、物食う様子とを、楽し気に見やりながら静かに手酌の盃を傾けていた。踊子の洋装と化粧の仕方を見ても、更に嫌悪を催す様子もなく、かえって老年のわたくしがいつも感じているような興味を、同じように感じている・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫