・・・ 凍った空気を呼吸するたびに、鼻に疼痛を感じながら栗本は、三和土にきしる病室の扉の前にきた。 扉を押すと、不意に、温かい空気にもつれあって、クレゾールや、膿や、便器の臭いが、まだ痛みの去らない鼻に襲いかゝった。 踵を失った大西は・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・おげんが娘や甥を連れてそこへ来たのは自分の養生のためとは言え、普通の患者が病室に泊まったようにも自分を思っていなかったというのは、一つはおげんの亡くなった旦那がまだ達者でさかりの頃に少年の蜂谷を引取って、書生として世話したという縁故があった・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・細君はもう夜中も、夫の様子に注意するという風になって、非常に気を付けて看護をしたのであったが、丁度五月十六日の晩の月夜に、自分の病室を脱け出して、家の周囲にある樹に細引を掛けて、それに縊れて二十七歳で死んだ。その素質に於いては稀に見る詩人で・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・ 母の病室。ああ、これは、やっぱり困ったことだ。どうにも想像の外である。私の空想は、必ずむざんに適中する。おそろしい。考えてはならぬところだ。ここは、避けよう。 私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそに嫁いでいる私のすぐの姉も・・・ 太宰治 「花燭」
・・・百日くらいまえに私はかれの自宅の病室を見舞ったのでございます。月光が彼のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、掬えると思いました。高橋は、両の眉毛をきれいに剃り落していました。能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるして・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・ 病室には叔母の他に、看護婦がふたり、それから私の一ばん上の姉、次兄の嫂、親戚のおばあさんなど大勢いた。私たちは隣りの六畳の控えの間に行って、みんなと挨拶を交した。修治は、ちっとも変らぬ。少しふとってかえって若くなった、とみんなが言った・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ヒロインが病院の病室を一つ一つ見回って愛人を捜す場面で、階下から聞こえて来る土人女の廃頽的な民謡も、この場の陰惨でしかもどこかつやけのある雰囲気を濃厚にする。それから次の酒場で始終響いているピアノの東洋的なノクターンふうの曲が、巧妙にヒロイ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 殺風景な病室の粗末な寝台の上で最期の息を引いた人の面影を忘れたのでもない、秋雨のふる日に焼場へ行った時の佗しい光景を思い起さぬでもないが、今の平一の心持にはそれが丁度覚めたばかりの宵の悪夢のように思われるのである。 妹を引取って後・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
・・・奥さんがその花を持って病室へ行ったら一言「きれいだな」と言われたそうである。勝手のほうの炉のそばでM医師と話をしていたら急に病室のほうで苦しそうなうなり声が聞こえて、その時にまた多量の出血があったようであった。 臨終には間に合わず、わざ・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・山では病室の次ぎの間に、彼は五日ばかりいた。道太の姉や従姉妹や姪や、そんな人たちが、次ぎ次ぎににK市から来て、山へ登ってきていたが、部屋が暑苦しいのと、事務所の人たちに迷惑をかけるのを恐れて、彼はK市で少しほっとしようと思って降りてきた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫