・・・この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切の安・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・その顔の表情はなんともいえない凄いものであった。死を決した顔! か、死を宣告された顔! であった。 彼は安岡が依然のままの寝息で眠りこけているのを見すますと、こんどは風のように帰ってきて、スイッチをひねらないで電球をねじって灯を消した。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・頬っぺたが前に見た時より赤くなっていて、表情が前に見た時より馬鹿らしく見えている。そして黙って戸の際に立っている。 客の詞には押え切れない肝癪の響がある。「どうしたのだね。妙じゃないか。ジネストの奥さんに、わたしが来て待っているとそう云・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それからじつに不思議な表情をして笑った。(青金で誰か申し上げたのはうちのことですが、何分汚ないし、いろいろ失礼 老人はわずかに腰をまげて道と並行にそのまま谷をさがった。五、六歩行くとそこにすぐ小さな柾屋があった。みちから一間ばか・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・けれども、ニヤニヤしないでも、真実のこもった親切な表情で十分心もちは通じます。 長い歴史の間、過去の日本人が、上から抑えつけられてばかりいた結果、習慣となった卑屈な愛嬌笑いは、男にも女にも、不用です。 私たちは、そういう日本人である・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・大抵いつも新聞を置くときは、極 apathique な表情をするか、そうでなければ、顔を蹙めるのである。書いてあるのは毒にも薬にもならないような事であるか、そうでなければ、木村が不公平だと感ずるような事であるからである。そんなら読まなくても・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・悲しげな女の目には近所の人達の詞に同意する表情が見えた。そしてこう云った。「難有うございます。皆さんが御親切になすって下すって難有うございます。」ユリアはまだその上にこう云った。「警部さん。あなたはこうなった方が、かえってよいかも知れないと・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・今はナポレオンは妻の表情から敵を感じた。彼は彼女の手首をとって引き寄せた。「寄れ、ルイザ」「陛下、侍医をお呼びいたしましょう。暫くお待ちなされませ」「寄れ」 彼女は緞帳の襞に顔を突き当て、翻るように身を躍らせて、広間の方へ馳・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・目は青くて、妙な表情をしていた。なんでもずっと遠くにある物を見ているかと思うように、空を見ていた。悲しげな目というでもない。真面目な、ごく真面目な目で、譬えば最も静かな、最も神聖な最も世と懸隔している寂しさのようだとでも云いたい目であった。・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・私がそういう顔をしている時には妻は決して笑ったりハシャイだりはできないので、自然無口になって、いくらか私の気ムズかしい表情に感染します。親たちの顔に現われたこういう気持ちはすぐ子供に影響しました。初めおとなしく食事を取っていた子供は、何ゆえ・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫