・・・知人も無さそうだし、貸す風でもねえが。と独語つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚い衣服、髪垢だらけの頭したるが、裏口から覗きこみながら、異に潰れた声で呼ぶ。「大将、風邪でも引かしッたか。 両手で頬杖しながら匍匐臥に・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・「一寸、今、他に貸すような家も見当りません……妙なもので、これで壁でも張って、畳でも入替えて御覧なさい、どうにか住めるように成るもんですよ」 と復た先生が言った。 同じ士族屋敷風の建物でも、これはいくらか後で出来たものらしく、蚕・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・他人に貸すわけじゃあるまいし。」「お父さん、」と上の姉さんも笑いながら、「そりゃ当り前よ。お父さんには、わからない。お帰りの日までは、どんなに親しい人にだって手をふれさせずに、なんでも、そっくりそのままにして置かなければ。」「ばかな・・・ 太宰治 「佳日」
・・・煙草の火を貸した場合は、私はひどく挨拶の仕方に窮するのである。煙草の火を貸すという事くらい、世の中に易々たる事はない。それこそ、なんでもない事だ。貸すという言葉さえ大袈裟なもののように思われる。自分の所有権が、みじんも損われないではないか。・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・「パンパンに貸すのか?」「そうでしょう。」「姉さん、僕はこんど結婚するんだぜ。たのむから貸してくれ。」「お前さんの月給はいくらなの? 自分ひとりでも食べて行けないくせに。部屋代がいまどれくらいか、知ってるのかい。」「そり・・・ 太宰治 「犯人」
・・・て、かねて私の馴染のおでんやに行き、亭主に二階の静かな部屋を貸してもらうように頼んだが、あいにくその日は六月の一日で、その日から料理屋が全部、自粛休業とかをする事になっているのだそうで、どうもお座敷を貸すのはまずい、という亭主の返辞で、それ・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
・・・しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。 次に目に・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日と定まる仕合の催しに、後れて乗り込む我の、何の誰よと人に知らるるは興なし。新しきを嫌わず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾あらば貸し玉え」 老人ははたと手を拍つ。「望める・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・政治の気風が学問に伝染してなお広く他の部分に波及するときは、人間万事、政党をもって敵味方を作り、商売工業も政党中に籠絡せられて、はなはだしきは医学士が病者を診察するにも、寺僧または会席の主人が人に座を貸すにも、政派の敵味方を問うの奇観を呈す・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
出典:青空文庫