・・・ 峰の雲は相追うて飛べり。松も遠山も見えずなりぬ。雨か。鳥の声のうたたけわしき。 二 半日の囲碁に互いの胸を開きて、善平はことに辰弥を得たるを喜びぬ。何省書記官正何位という幾字は、昔気質の耳に立ち優れてよく響き渡・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・「全世界の人悉くこの願を有ていないでも宜しい、僕独りこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でも関いません、もし鬼ありて僕に保証するに、爾の妻を与えよ我これを姦せん爾の子を与・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・この骨組みの鉄筋コンクリート構造に耐え得ずして、直ちに化粧煉瓦を求め、サロンのデコレーションを追うて、文芸の門はくぐるが、倫理学の門は素通りするという青年学生が如何に多いことであろう。しかしすぐれた文学者には倫理学的教養はあるものである。人・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・けれども、プラトオクに頭をくるんだ牛を追う女は、馬が自分の傍を通りぬける時、なつこい声をかけた。「ミーチャ!」「ナターリイ。」 騎者の荒々しい声を残して、馬は、丘を横ぎり、ナターリイの前を矢のように走り抜けてしまった。 暫ら・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・樹と樹との間には、花園の眺めが面白く展けて、流行を追う人々の洋傘なぞが動揺する日の光の中に輝く光影も見える。 二人は鬱蒼とした欅の下を択んだ。そこには人も居なかった。「今日は疲れた」 と相川はがっかりしたように腰を掛ける。原は立・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・自己の生を追うた行止りはどうなるのだ。ことに困るのは、知識で納得の行く自己道徳というものが、実はどうしてもまだ崇高荘厳というような仰ぎ見られる感情を私の心に催起しない。陳い習慣の抜殻かも知れないが、普通道徳を盲目的に追うている間は、時として・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・而して林氏の説に序を逐うて答ふるも、一法なるべけれど、堯舜禹の事蹟に關する大體論を敍し、支那古傳説を批判せば、林氏に答ふるに於いて敢へて敬意を失することなからん。こゝには便宜上後者によつて私見を述べんとするもの也。 先、堯典に見るにその・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・凡そ百種くらいの仕掛花火の名称が順序を追うて記されてある大きい番附が、各家毎に配布されて、日一日とお祭気分が、寂れた町の隅々まで、へんに悲しくときめき浮き立たせて居りました。お祭の当日は朝からよく晴れていて私が顔を洗いに井戸端へ出たら、佐吉・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・しかし彼の旅行は単に月並な名所や景色だけを追うて、汽車の中では居眠りする亜類のではなくて、何の目的もなく野に山に海浜に彷徨するのが好きだという事である。しかし彼がその夢見るような眼をして、そういう処をさまよい歩いている間に、どんな活動が彼の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・世界の如何なる片隅をも我家のように楽しく談笑している外国人の中に交って、自分ばかりは唯独り心淋しく傾けるキァンチの一壜に年を追うて漸く消えかかる遠い国の思出を呼び戻す事もあった。 銀座界隈には何という事なく凡ての新しいものと古いものとが・・・ 永井荷風 「銀座」
出典:青空文庫