・・・』 主人は客の風采を視ていてまだ何とも言わない、その時奥で手の鳴る音がした。『六番でお手が鳴るよ。』 ほえるような声で主人は叫んだ。『どちらさまでございます。』 主人は火鉢に寄っかかったままで問うた。客は肩をそびやかして・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・はじめてこの時少年の面貌風采の全幅を目にして見ると、先刻からこの少年に対して自分の抱いていた感想は全く誤っていて、この少年もまた他の同じ位の年齢の児童と同様に真率で温和で少年らしい愛らしい無邪気な感情の所有者であり、そしてその上に聡明さのあ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・博士は、よれよれの浴衣に、帯を胸高にしめ、そうして帯の結び目を長くうしろに、垂れさげて、まるで鼠の尻尾のよう、いかにもお気の毒の風采でございます。それに博士は、ひどい汗かきなのに、今夜は、ハンカチを忘れて出て来たので、いっそう惨めなことにな・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・見ると、木戸にいる時と同様、紺の股引にジャケツという風采であった。「なには? あの、店のほうは?」私は気がかりになったので尋ねた。「ちょっといま、休ませて来ました。」ドンジャンの鐘太鼓も聞えず、物売りの声と参詣人の下駄の足音だけが風・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ この都に大勢いる銀行員と云うものの中で、この男には何の特色もない。風采はかなりで、極力身なりに気を附けている。そして文士の出入する珈琲店に行く。 そこへ行けば、精神上の修養を心掛けていると云う評を受ける。こう云う評は損にはならない・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・それに、その容貌が前にも言ったとおり、このうえもなく蛮カラなので、いよいよそれが好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろう、打ち見たところは、いかな猛獣とでも闘うというような風采と体格とを持っているのに……。これも造化の戯れの一・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・その当時の彼の地の新聞は彼の風采と講演ぶりを次のように伝えている。「……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・弟妹とちがって風采もよくてハイカラでまたそれだけにおしゃれでもあった。自宅では勉強が出来ないので円行寺橋の袂にあった老人夫婦の家の静かな座敷を借りて下宿していた。夏のある日の午後、いつものようにそこへ英語を教わりに行った時に、自分には初めて・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・洋装の軍服を着れば如何なる名将といえども、威儀風采において日本人は到底西洋の下士官にも肩を比する事は出来ない。異った人種はよろしく、その容貌体格習慣挙動の凡てを鑑みて、一様には論じられない特種のものを造り出すだけの苦心と勇気とを要する。自分・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・り小紋の羽織に小紋の小袖の裾を端折り、紺地羽二重の股引、白足袋に雪駄をはき、襟の合せ目をゆるやかに、ふくらました懐から大きな紙入の端を見せた着物の着こなし、現代にはもう何処へ行っても容易には見られない風采である。歌舞伎芝居の楽屋などにも、こ・・・ 永井荷風 「草紅葉」
出典:青空文庫