・・・「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると思う。が、江口の人間的興味の後には、屡如何にしても健全とは呼び得ない異常性が富んでいる。これは菊池が先月の文章世界で指摘しているから、今更繰返す必要もないが、唯、自分にはこの異常性・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・ 園を出ずれば丈高く肥えたる馬二頭立ちて、磨りガラス入りたる馬車に、三個の馬丁休らいたりき。その後九年を経て病院のかのことありしまで、高峰はかの婦人のことにつきて、予にすら一言をも語らざりしかど、年齢においても、地位においても、高峰は室・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・田鼠化為鶉、馬丁すなわち奉行となる。信濃国東筑摩郡松本中の評判じゃ。唯今、その邸から出て来た処よの。それ、そこに見えるわ、あ、あれじゃ。白糸 ああ、嬉しい、あの、そして、欣弥さんは御機嫌でございますか。七左 壮健とも、機嫌は今日のお・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・「私もそりゃ、最初から貴方を車夫馬丁同様の人物と考えたんだと、そりゃどんな強い手段も用いたのです。がまさかそうとは考えなかったもんだから、相当の人格を有して居られる方だろうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云いなりになって延期もして来たよう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして馬丁にやとってもらいました。 ウイリイはうまや頭からおそわって、ていねいに王さまのお馬の世話をしました。じぶんの馬も大事にしました。そして、しばらくの間なにごともなく、暮していました。 ウイリイは厩のそばに、部屋をもらっていま・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・鏡の中のわが顔に、この世ならず深く柔和の憂色がただよい、それゆえに高雅、車夫馬丁を常客とする悪臭ふんぷんの安食堂で、ひとり牛鍋の葱をつついている男の顔は、笑ってはいけない、キリストそのままであったという。ひるごろ私は、作家、深田久弥氏のもと・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・いわゆる車夫馬丁にたいしても、「馬鹿野郎」と、言えるくらいに、私はなりたいと思っている。できるかどうか。ひとから先生と言われただけでも、ひどく狼狽する私たち、そのことが、ただ永遠の憧れに終るのかも知れないが。 教養人というものは、どうし・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が貝多羅の葉で作った大きな団扇でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、亭前の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。N氏がそれを襟のボタン穴にさしたからT氏と自分も・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・生れて間もない私が竜門の鯉を染め出した縮緬の初着につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王の祠の石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁に手を引かれて名古屋の大須観音の広庭で玩具を買っている場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
出典:青空文庫