・・・ が、この不しだらな夫人のために泥を塗られても少しも平時の沈着を喪わないで穏便に済まし、恩を仇で報ゆるに等しいYの不埒をさえも寛容して、諄々と訓誡した上に帰国の旅費まで恵み、あまつさえ自分に罪を犯した不義者を心から悔悛めさせるための修養・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・といって、暫時、頭をおかしげになっていましたが、「ああ、きっと外国へいくんでしょうよ。」と、やさしくいわれました。「幾日ばかりかからなければ、外国へいかれませんの。」と、露子は聞きました。「幾日も、幾日もかからなけれ・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ たとえ、其の人の事業は、年をとってから完成するものだとはいうものゝ、すでに、其の少時に於て、犯し難き片鱗の閃きを見せているものです。若くして死んだ、詩人や、革命家は、その年としては、不足のないまで、何等か人生のために足跡を残していまし・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・適者生存は、犯し難い真理であります。驕る者久しからず、これを思えばもっと人間は、動物に対して、親切であるべき筈である。 ハドソンは、いっているが、動物が、人間の用となるためには、どれ程多くの美と天性とを犠牲にしているか知れないと。この言・・・ 小川未明 「天を怖れよ」
・・・ お母さんも、お姉さんも、政ちゃんの、いつにない真剣なようすを見て、おかしそうに、お笑いになりました。「なぜ、政ちゃんは、ペスを呼ばなかったのだい。」と、いちばん年上の達ちゃんが、こんどは、たずねました。「ぼく、ペス、ペスと呼ん・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・ 言いかけて、お君を犯したことをふと想いだし、何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした。 軽部はお君と結婚したことを後悔した。しかし、お君が翌年の三月男の子を産むと、日を繰ってみて、ひやっとし、結婚してよか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・……声まで顫えて、なるほど一枚ではさぞ寒かろうと、おれも月並みに同情したが、しかし、同じ顫えるなら、単衣の二枚重ねなどという余り聴いたことのないおかしげな真似は、よしたらどうだ。……それに、二円貸せとは、あれは一体なんだ? 同じことなら、二・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・ そして、自分からおかしそうに噴きだしてのけ反らんばかりにからだごと顔ごとの笑いを笑ったが、たった一つ眼だけ笑っていなかった。そこだけが鋭く冷たく光っていた。 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
・・・が、あの高い煉瓦塀の中でのいっさいの自由を奪われたような苦役生活の八年間――どれほどの重い罪を犯したものか、自分なんかにはほとんど想像もつかないことではあるが、何しろ彼はまだ当年十九歳の、いわばまだ少年と言っていい年齢だったのだ。それがそれ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・ 惣治にはおかしくもなかった。相変らずあんなことばかし言って、ふわふわしているのだろうという気がされて、袋から眼を反らした。その富貴長命という字が模様のように織りこまれた袋の中には、汚れた褞袍、シャツ、二三の文房具、数冊の本、サック、怖・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫