・・・これを見て或人はわたしの説を駁して、現代の人が祖国の花木に対して冷淡になっているはずはないと言うかも知れない。しかしわたくしの見る処では、これは前の時代の風習の残影に過ぎない。人の家の床の間に画幅の掛けられているのを見て、直にその家の主人を・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚ったように思う。雨はだんだん密になるので外・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・を直覚させるであらうところの装幀――に関して、多少の行き届いた良心と智慧とをもつてゐる文学者たちは、決していつも冷淡であることができないだらう。 けれどもこの注文は、実際に於て満足されない事情がある。なぜかならば我等の芸術を装幀するもの・・・ 萩原朔太郎 「装幀の意義」
・・・我輩の持論は其再縁を主張する者なれども、日本社会の風潮甚だ冷淡にして、学者間にも再縁論を論ずる者少なきのみか、寡居を以て恰も婦人の美徳と認め、貞婦二夫に見えずなど根拠もなき愚説を喋々して、却て再縁を妨ぐるの風あるこそ遺憾なれ。古人の言う二夫・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。主観的の方は、病気・・・ 正岡子規 「死後」
・・・毎日の新聞記事をそっくりそのまま信じないまま、冷淡になってゆく心理の習慣、社会的な感情を生活の疲労とともに無反応、無批判にみちびいてゆく手段。これこそファシズムの社会心理学第一章です。軍部の「怪文書」が乱れとんで、出所も正体もわからないまま・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色には見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・ 妻は彼を見て頷いた。「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。死んだって、死ぬなんてことは、そんなことは何んでもない。分ったね。」――無論、何をいっているのか彼にも分らなかった。 妻は冷淡な眼で彼を見詰めたまま黙っていた。「お前・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・おもえばあのように陰気で冷淡そうな方が僕のようなものを可愛がって下さるのは、不思議なようですが、ほんとうにそうなんでした。よく僕は奥さまの仰しゃる通りに、頭を胸へよせ掛けて、いつまでか抱れていると、ジット顔を見つめていながら色々仰ったその言・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・私は彼らの眼に冷淡な薄情な男として映るのです。 ことに私は時々何かの問題のためにひどい憂愁に閉じ込められる事があります。私はいくらあせってもこの問題を逃避しない限りある「時」が来るまでは自分をどうすることもできないのです。私もまさかこの・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫