・・・現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、中道にして廃するのを遺憾とするのもある。子孫の計がいまだならず、美田をいまだ買いえないで、その行く末を憂慮す・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・して、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・眷属に別れて独り死出の山、三途の川を漂泊い行く心細さを恐るるのもある、現世の歓楽・功名・権勢、扨は財産を打棄てねばならぬ残・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・北村君自身の言葉を借りて云えば、不覊磊落な性質は父から受け、甚だしい神経質と、強い功名心とは母から受けた。斯ういう気風は少年の時からあって、それが非常にやかましい祖父の下に育てられ、祖母は又自分に対する愛情が薄かったという風で、後に成って気・・・ 島崎藤村 「北村透谷の短き一生」
・・・もう一つ、この男の、芸術家の通弊として避けられぬ弱点、すなわち好奇心、言葉を換えて言えば、誰も知らぬものを知ろうという虚栄、その珍らしいものを見事に表現してやろうという功名心、そんなものが、この男を、ふらふら此の決闘の現場まで引きずり込んで・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・お前たちは、和子を利用して、てんでの虚栄心や功名心を満足させようとしているのです。」と教えるような口調で言いました。母は、父のおっしゃる言葉をちっとも聞こうとなさらず、腕を伸ばして私の傍の七輪のお鍋を、どさんと下におろして、あちちと言って右・・・ 太宰治 「千代女」
・・・あっと一驚させずば止まぬ態の功名心に燃えて、四日目、朝からそわそわしていた。家族そろって朝ごはんの食卓についた時にも、自分だけは、特に、パンと牛乳だけで軽くすませた。家族のひとたちの様に味噌汁、お沢庵などの現実的なるものを摂取するならば胃腑・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・広大な松林の中を一直線に切開いた道路は実に愉快なちょっと日本ばなれのした車路で、これは怪我の功名意外の拾い物であった。 帰路は夕日を背負って走るので武蔵野特有の雑木林の聚落がその可能な最も美しい色彩で描き出されていた。到る処に穂芒が銀燭・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・もちろん若いころには免れ難い卑近な名誉心や功名心も多分に随伴していたことに疑いはないが、そのほかに全く純粋な「創作の歓喜」が生理的にはあまり強くもないからだを緊張させていたように思われる。全くそのころの自分にとっては科学の研究は一つの創作の・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・優れた自由な頭脳と強烈な盲目の功名心の結合した場合に起りやすい現象であると思う。 この随筆中に仏書の悪口をいうた条がある。釈迦が譬喩に云った事を出家が真に受けているのが可笑しいというのである。そして経文を引用してある中に、海水の鹹苦な理・・・ 寺田寅彦 「断片(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・空想から現実の世界へ踏み込んで、功名心にかられて懸命に努力し、あくせくしていた。そうして亮の学校をなまける心持ちには共鳴し難くなっていた。私の目から見るとただ自分の心の中へ中へと引っ込んで行く亮を、どうでも引き立てて外側へ向け直してやる事が・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
出典:青空文庫