・・・余は元来呑気なだけに正直なところ、功名心には冷淡な男である。死ぬとしても別に思い置く事はない。別に思い置く事はないが死ぬのは非常に厭だ、どうしても死にたくない。死ぬのはこれほどいやな者かなと始めて覚ったように思う。雨はだんだん密になるので外・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・のの、ままにならぬは浮世の習、容易にそっちの方角へ曲らない、道幅三分の二も来た頃、やっとの思でハンドルをギューッと捩ったら、自転車は九十度の角度を一どきに廻ってしまった、その急廻転のために思いがけなき功名を博し得たと云う御話しは、明日の前講・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・れを再演するなかれとの意を示して、断然政府の寵遇を辞し、官爵を棄て利禄を抛ち、単身去てその跡を隠すこともあらんには、世間の人も始めてその誠の在るところを知りてその清操に服し、旧政府放解の始末も真に氏の功名に帰すると同時に、一方には世教万分の・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・マーニャが、天性の勤勉さ、緻密で、敏活な頭脳を、こうしてごく若いころから自分の功名のためだけに使おうなどとは思いもしなかった気質こそ、後年キュリー夫人として科学者、人間としての彼女の真価をきめるものとなったと思います。 姉のブローニャが・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人の命の焔」
・・・今日来た郡山の新聞記者は、明にその傾向を語ると共に、そう云う一つの変動が起った場合に余波を受けて起る箇人的野心、或は、人間の本能的功名心を示して居る。 彼は、政治記者である。 彼の云うところによると、市に大字桑野として編入されること・・・ 宮本百合子 「日記・書簡」
・・・ 所謂文壇的功名心を創作の動機としていなかったという意味では、この二人の婦人作家は同じ足場にあるわけなのである。私は『牡丹のある家』の作者が、社会的重圧との積極的な揉み合いのうちに、或る時は作品を切りこまざかれつつ、いつしかプロレタリア・・・ 宮本百合子 「二つの場合」
・・・死人の首でも取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫