・・・た、あのおさんの、 女房のふところには 鬼が棲むか あああ 蛇が棲むか とかいう嘆きの歌が思い出され、夫が起きて私の部屋へやって来て、私はからだを固くしましたが、夫は、「あの、睡眠剤が無かったかしら。」「ございま・・・ 太宰治 「おさん」
・・・負傷前は五六時間睡眠平均、または時に徹夜で読書、著述、また会社で小品みたいなものは書いたりしましたが、これからはイヤです。太宰さん、ぼくは東京に帰って、文学青年の生活をしてみたいのです。会社員生活をしているから社会がみえたり、心境が広くなる・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・妻は睡眠不足の少し充血した眼を見張った。「いちど、林檎のみのっているところを、見たいと思っていました。」 手を伸ばせば取れるほど真近かなところに林檎は赤く光っていた。 十一時頃、五所川原駅に着いた。中畑さんの娘さんが迎えに来ていた。・・・ 太宰治 「故郷」
・・・私は、老いの寝覚めをやるほうなので、夜明けが待ち遠しいことさえある。睡眠時間が、短いのである。からだのどこかが、老人になってしまっているのかも知れない。朝、寝床の中で愚図愚図していると、のた打つほど苦になることばかり、ぞろぞろ、しかも色あざ・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・ 私は、睡眠のあいだの夢に於いて、或る友人の、最も美しい言葉を聞いた。また、それに応ずる私の言葉も、最も自然の流露の感じのものであった。 また私は、眠りの中の夢に於いて、こがれる女人から、実は、というそのひとの本心を聞いた。そうして・・・ 太宰治 「フォスフォレッスセンス」
・・・三昼夜と七時間半も踊りつづける間に、睡眠はもちろん不可能であるが、食事や用便はどういうふうにしたものか聞きたいものである。 これに似たのでは八十二時間ピアノをひき通したというのがある。この男の商売が屠牛業であるのがおもしろい。しかしこれ・・・ 寺田寅彦 「記録狂時代」
・・・それで昼食後に少し寝たいと思うと、今度はまたテノルの唱歌で睡眠を妨げられた。 午後九時から甲板で舞踏会を催すという掲示が出た。それに署名された船長の名前がいかめしく物々しく目についた。夕飯後からそろそろ準備が始まった。各国の国旗で通風管・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・自然の不可思議な機構を捜る喜びと、本能の欲求する睡眠を抑制するつらさとが渾然と融和した形になって当時の記憶を彩っているようである。 その頃の熱海行きは、国府津まで汽車で行って国府津から小田原まで電車、小田原からは人車鉄道という珍しい交通・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・汽車で明す夜といえば動揺する睡眠に身体も頭も散々な目に逢う。動いて行く箱の中で腰の痛さに目が覚める。皮膚が垢だらけになったような気がする。いろいろな塵が髪と眼の中へ飛込む。すうすう風の這入って来る食堂車でまずい食事をする。それらは私にいわせ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ こういったふうな状態は、彼をやや神経衰弱に陥れ、睡眠を妨げる結果に導いた。 彼とベッドを並べて寝る深谷は、その問題についてはいつも口を緘していた。彼にはまるで興味がないように見えた。 どちらかといえば、深谷のほうがこんな無気味・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
出典:青空文庫