出典:青空文庫
・・・音楽に酔うているようなたのしみを、その書物のステイルが与えてくれるようなものを、喜んで読みたいと思うのである。アランや正宗白鳥のエッセイがいつ読んでも飽きないのは、そのステイルのためがあると思っている。このひと達へ作品からは結論がひきだせな・・・ 織田作之助 「僕の読書法」
・・・間接に師と仰いだのは、前記の作家たち、ことにスタンダール、そしてそこから出ているアラン。なお、小林秀雄氏の文芸評論はランボオ論以来ひそかに熟読した。 西鶴を本当に読んだのは「夫婦善哉」を単行本にしてからである。私のスタイルが西鶴に似てい・・・ 織田作之助 「わが文学修業」
・・・ 九 アラン「ベンガルの槍騎兵」などとは全く格のちがった映画である。娯楽として見るにはあまりにリアルな自然そのものの迫力が強すぎるような気がする。神経の弱いものには軽い脳貧血を起こさせるほどである。こんな土の見えない・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・ アラン・ポーの短編の中に、いっしょに歩いている人の思っていることをあてる男の話があるが、あれはいかにももっともらしい作り事である。しかしまんざらのうそでもないのである。 二 睡蓮を作っている友人の話である。・・・ 寺田寅彦 「藤棚の陰から」
・・・否定的自覚というのも無限の過程である。アランのいう如く、懐疑的自覚は幾度も繰返されなければならない。 哲学の立場は、見るものなくして見る立場、考えるものなくして考える立場として、そこに自己自身を限定する自覚的原理を把握するのである。それ・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ アランの言葉と云うと、その思意的な情感がうけとられ、評価され、国産であると思意的な人間感情そのものの存在が理知と一つにされたりリアリティーが疑われるというようなことがあれば、そこにはやはり今日の日本の文学、或は作家の心というものが・・・ 宮本百合子 「現実と文学」
・・・ この間、アランの『文学語録』という本を頂いた。はじめの方に散文と詩とのことが語られているところがある。アランに云わせると、散文は自己自身と他からの働きかけとの間の調整を求めるのを法則としていて、従って外的ないろいろな力に追いまわさ・・・ 宮本百合子 「作品のよろこび」
・・・かり目につく食堂に物を食べているのは、我々ただ二人ぎりだということは、食うという動作に妙な自覚を与えられる――つまり、その感じを少しつきつめて行くと、度はずれな人気なさと錯雑した色彩の跳梁とで何処やらアラン・ポウ的幻想が潜んでいそうな室内で・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ ヨーロッパ文学においてもバルザックの散文の強壮さは失われた。大戦後は散文は神経腺のようなものになり、さもなければ破産的なものに細分された。 アランの散文に対する誤った理解はよくそれを語っている。 日本の近代文学において、散文は・・・ 宮本百合子 「バルザックについてのノート」