・・・ 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍の影、一つ赤蜻蛉の飛ぶ向うの畝を、威勢の可い声。「号外、号外。」 二「三ちゃん、何の号外だね、」 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場の馴染の奴、張ものにうつむいた・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・七兵衛は勝手の戸をがらりと開けた、台所は昼になって、ただ見れば、裏手は一面の蘆原、処々に水溜、これには昼の月も映りそうに秋の空は澄切って、赤蜻蛉が一ツ行き二ツ行き、遠方に小さく、釣をする人のうしろに、ちらちらと帆が見えて海から吹通しの風颯と・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・暖か過ぎるが雨にはなるまい。赤蜻蛉の羽も、もみじを散して、青空に透通る。鐘は高く竜頭に薄霧を捲いて掛った。 清水から一坂上り口に、薪、漬もの桶、石臼なんどを投遣りにした物置の破納屋が、炭焼小屋に見えるまで、あたりは静に、人の往来はまるで・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・晩飯の烏賊と蝦は結構だったし、赤蜻蛉に海の夕霧で、景色もよかったが、もう時節で、しんしんと夜の寒さが身に沁みる。あすこいら一帯に、袖のない夜具だから、四布の綿の厚いのがごつごつ重くって、肩がぞくぞくする。枕許へ熱燗を貰って、硝子盃酒の勢で、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 色も空も一淀みする、この日溜りの三角畑の上ばかり、雲の瀬に紅の葉が柵むように、夥多しく赤蜻蛉が群れていた。――出会ったり、別れたり、上下にスッと飛んだり。あの、紅また薄紅、うつくしい小さな天女の、水晶の翼は、きらきらと輝くのだけれど、・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・二つ蜻蛉が草の葉に、かやつり草に宿をかり、人目しのぶと思えども、羽はうすものかくされぬ、すきや明石に緋ぢりめん、肌のしろさも浅ましや、白い絹地の赤蜻蛉。雪にもみじとあざむけど、世間稲妻、目が光る。 ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 一廻り斜に見上げた、尾花を分けて、稲の真日南へ――スッと低く飛んだ、赤蜻蛉を、挿にして、小さな女の児が、――また二人。「まあ、おんなじような、いつかの鼓草のと……」「少し違うぜ、春のが、山姫のおつかわしめだと、向うへ出たのは山・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つづいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶことこの通りのみにて七十五輌と数へしも、二の替りさへいつしか過ぎて、赤蜻蛉田圃に乱るれば、横堀に鶉なく頃も近きぬ。朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が・・・ 永井荷風 「里の今昔」
出典:青空文庫