姓氏の一。
ひろおかたつろう【広岡達朗】
[1932〜 ]プロ野球選手・監督。広島の生まれ。昭和29年(1954)巨人軍に入団、遊撃手として活躍。引退後、ヤクルト・西武の監督を歴任。チームを計3度の日本一に導き「優勝請負人」とよばれた。
ひろおかともお【広岡知男】
[1907〜2002]新聞経営者。大阪の生まれ。学生時代は野球で活躍。昭和7年(1932)朝日新聞社に入社し、経済記者として健筆をふるった。同42年社長。同52年会長。アマチュア野球に携わり、野球のオリンピック参加にも尽力した。
ひろおかあさこ【広岡浅子】
[1849〜1919]実業家。京都の生まれ。豪商三井家の四女で、17歳のとき大阪の広岡信五郎と結婚。維新後は実業界に入り、炭鉱経営や銀行設立などに携わった。日本女子大学校(現日本女子大学)設立など、女子教育の推進や婦人運動にも尽力。
出典:gooニュース
【ソフトテニス】広岡宙、ファイナルの末、優勝逃すも次への躍動に期待!
【画像】相手のボールをうまく返す広岡宙選手2024年度に活躍した中の全日本ランキング上位11ペアと大阪ランキング1ペアの合計12ペアで大会が開催された。4つの予選リーグから始まって1位通過した選手が決勝トーンメントに進出するという今大会。NTT西日本の3ペアが予選リーグを突破。残りのひと枠は、学生ペアという顔ぶれになった。
広岡達朗氏、盟友吉田義男さんを追悼「彼がいたから成長できた」
いい男で、野球がうまかった」早大時代から名手と言われていた広岡氏だが、当時の早大・森茂雄監督から「立命大に広岡よりうまいショートがいる」と言われ、火がついたという。巨人でも「広岡―長嶋(茂雄)より、吉田―三宅(秀史)の三遊間の方がうまい」という声に燃えた。当時、吉田義男を中心に「鉄壁」と称されたタイガース内野陣へのライバル心が、原動力だったと話す。
きめ細かい“広岡野球”が面白い! イチロー氏がまねたバット回しルーティン “モノ言う天才打者”田尾安志氏が首脳陣との衝突を繰り返したワケ
きめ細かい“広岡野球”が面白い田尾氏は移籍した西武に2年間在籍。1年目は広岡達朗監督、2年目は森祇晶監督のもとでプレーし2年ともリーグ優勝、日本シリーズに進出した。田尾:2年いましたけど2年とも日本シリーズに出て、いい経験をさせてもらいました。やっぱり“広岡野球”は中日の野球よりもきめが細かくて、あそこで色んな勉強をさせてもらった。
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