我(われ)思(おも)う故(ゆえ)に我(われ)在(あ)り
《(ラテン)Cogito, ergo sum》フランスの哲学者デカルトの言葉。すべての意識内容は疑いえても、意識そのもの、意識する自分の存在は疑うことができない。コギト‐エルゴ‐スム。
我(われ)か
1 自分のことか。「秋の野に人松虫の声すなり—と行きていざとぶらはむ」〈古今・秋上〉 2 「我か人か」の略。「いとどなよなよと—のけしきにて臥したれば」〈源・桐壺〉
われ‐かしこ【我賢】
[形動ナリ]自分だけがかしこそうにしているさま。「—にうちあざわらひて語るを」〈源・手習〉
我(われ)か人(ひと)か
自分なのか他人なのか判然としないさま。自分を失っているさま。「あまびこのおとづれじとぞ今は思ふ—と身をたどる世に」〈古今・雑下〉
われ‐から【我から】
[副] 1 自分から。また、自分自身が原因で。和歌では多く「破殻(われから)」と掛け詞で用いられた。「—進んで話す」「海人の刈る藻に住む虫の—と音(ね)をこそ泣かめ世をば恨みじ」〈古今・恋五〉 ...
我(われ)関(かん)せず焉(えん)
《「焉」は漢文で断定の意を表す助辞》自分には関係がない。超然としているようすをいう。我関せず。
我(われ)こそは
自分こそはと勢い込んでいうときに用いる。「—と進み出る」
われ‐さき【我先】
[名・形動]自分が先になろうと争うこと。また、そのさま。「—に逃げる」「—と驚きおそれて逃惑うに連れはなし」〈緑雨・門三味線〉
われ‐しらず【我知らず】
[副]自分でそれと意識せずに。思わず知らず。「—涙が出てきた」
われしり‐がお【我知り顔】
自分だけがよく知っているという顔つき。「—に話す」