・・・ 私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下から今の住居のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂を越せば、やがて植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷に・・・ 島崎藤村 「嵐」
ライン河から岸へ打ち上げられた材木がある。片端は陸に上がっていて、片端は河水に漬かっている。その上に鴉が一羽止まっている。年寄って小さくなった鴉である。黒い羽を体へぴったり付けて、嘴の尖った頭を下へ向けて、動かずに何か物思に沈んだよう・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・じいさんはそれを聞いて、「では私がなって上げましょう。私だからと言って、さきでお悔みになるようなことは決してありません。」と親切に言ってくれました。夫婦は、もう乞食でも何でもかまわないと思って、一しょにお寺へいってもらいました。 坊・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・ でも子どもが情けなさそうな顔つきになると、おかあさんはその子をひざに抱き上げました。「さあ私の頸をお抱き」 子どもはそのとおりにしました。「ママをキスしてちょうだい」 しかして小鳥のように半分開いたこの子の口からキスを・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・博士は、ときどき、思い出しては、にやにや笑い、また、ひとり、ひそかにこっくり首肯して、もっともらしく眉を上げて吃っとなってみたり、あるいは全くの不良青少年のように、ひゅうひゅう下手な口笛をこころみたりなどして歩いているうちに、どしんと、博士・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。 田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、「自・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので、それに手の届くように鞭撻された受験者はやっと数時間だけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘れて再び取りかえす事はない。それを忘れてしまえば厄介な記憶の訓練の効果は消えてしま・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・ 新築の市役所の前に青年団と見える一隊が整列して、誰かが訓示でもしているらしかったが、やがて一同わあっと歓声を揚げてトラックに乗込み風のごとくどこかへ行ってしまった。 三島の青年団によって喚び起された自分の今日の地震気分は、この静岡・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・いくら捜しても、迚も見つかりっこはありゃしねえと云んで、皆なまあ一時引揚げることにして錨を流して見ることになったんだ。 処が人数を調べてみると、上等兵の大瀬だけが一人揚って来ねえ。そいつは大変だと云うんで、また忰を捜すと云う騒ぎだ。だが・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・おひろは銚子を取り上げながら辰之助に聞いたりした。「伯父さんの病気でね」「ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ」 伊都喜と・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫