・・・「その時蜑崎照文は懐ろより用意の沙金を五包みとり出しつ。先ず三包みを扇にのせたるそがままに、……三犬士、この金は三十両をひと包みとせり。もっとも些少の東西なれども、こたびの路用を資くるのみ。わが私の餞別ならず、里見殿の賜ものなるに、辞わで納・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・彼れは道の向側の立樹の幹に馬を繋いで、燕麦と雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・して都府としての公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一事ならずんばさらに他の一事、この地にてなし能わずんばさらにかの地に行くというような、いわば天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の気魄を、双手を挙げて讃美する者であ・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・―― お雪さんは、歌磨の絵の海女のような姿で、鮑――いや小石を、そッと拾っては、鬼門をよけた雨落の下へ、積み積みしていたんですね。 めそめそ泣くような質ではないので、石も、日も、少しずつ積りました。 ――さあ、その残暑の、朝・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・……」 と謡うのが、遠いが手に取るように聞えた。――船大工が謡を唄う――ちょっと余所にはない気色だ。……あまつさえ、地震の都から、とぼんとして落ちて来たものの目には、まるで別なる乾坤である。 脊の伸びたのが枯交り、疎になって、蘆・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」「行って、どうします? 行って。」「もうこんな気になりまして・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・一ツずつそのなかばを取りしに思いがけず真黒なる蛇の小さきが紫の蜘蛛追い駈けて、縦横に走りたれば、見るからに毒々しく、あまれるは残して留みぬ。 松の根に踞いて、籠のなかさしのぞく。この茸の数も、誰がためにか獲たる、あわれ摩耶は市に帰るべし・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ある薄月夜にあまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取出して吹きすさみつつ、大谷地と云う所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、其下は葦など生じ湿りたる沢なり。此時谷の底より何者か高き声にて面白いぞ――と呼わる・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・「このあまっこめ、早く飯をくわせる工夫でもしろ……」「稲刈りにもまれて、からだが痛いからって、わしおこったってしようがないや、ハハハハハハ」「ばかア手前に用はねい……」 省作はこれで今日は稲が刈れるかしらと思うほど、五体がみ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・のみならず省作は天性あまり強く我を張る質でない。今母にこう言いつめられると、それでは自分が少し無理かしらと思うような男であるのだ。「おッ母さんに苦労ばかりさせて済まないです。なるほどわたしの我儘に違いないでしょう、けれどもおッ母さん、わ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
出典:青空文庫