・・・「病気も何もありゃしないのさ。いつもの通り晩に一口飲んで、いい機嫌になって鼻唄か何かで湯へ出かけると、じき湯屋の上さんが飛んで来て、お前さんとこの阿父さんがこれこれだと言うから、びっくらして行って見ると、阿父さんは湯槽に捉まったままもう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・という小説はありゃみな嘘の話だ、公判記録なんか読んだこともない、阿部定を妾にしていた天ぷら屋の主人も、「十銭芸者」の原稿も、復員軍人の話も、酒場のマダムも、あの中に出て来る「私」もみんな虚構だと、くどくど説明したが、その大学教授は納得しない・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・――入口の暖簾は変えたらどうだ、ありゃまるでオムツみたいだからね」 私は出資者のような口を利いて「千日堂」を出た。「チョイチョイ来とくなはれ」「うん。来るよ」 千日前へ来るのがたのしみになったよと、昔馴染に会うたうれしさに足・・・ 織田作之助 「神経」
・・・あんな事実なんか、全然君にありゃしないじゃないか。君はKに僕と絶交すると言ったそうだが、なぜそんなに君が怒ったのか、僕の方で不思議に思ったくらいだよ。君がサーニン主義者だなんて、誰が思うもんかね。あれはまったく君の邪推というものだよ。君はそ・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・何も関係ありゃしないんです。」彼は、リザ・リーブスカヤのことを思い出して、どぎまぎして「胸膜炎で施療に来て居るからそれで知っとるんです。」「そう弁解しなくたって君、何も悪いとは云ってやしないよ。」 曹長は笑い出した。「そうですか・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 神経衰弱だ何でもありゃしない!」 彼はすぐ自分の想像を取消そうとした。けれども、今の想像はなんだか彼の脳裏にこびりついてきた。 やがて、門の方で、ぱきぱきした下駄の音がした。「帰ったな。」と清吉は考えた。 彼は一刻も早く妻・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・それだのにまだおまえは隙さえありゃあ無鉄砲なことをしようとお思いのかエ。」と年齢は同じほどでも女だけにませたことを云ったが、その言葉の端々にもこの女の怜悧で、そしてこの児を育てている母の、分別の賢い女であるということも現れた。 源三・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・『……なアに、他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売だ、……とても、話せない……』なんて、エライ気焔だ。でも面白い気象の人で、近在へでも行くと、薬代が無けりゃ畠の物でも何でも可いや、葱が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には受が・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ギャングだの、低脳記者だの、ろくなものありゃしない。さちよを、ちっとでも仕合せにして呉れた男が、ひとりだって、無いやないか。それを、尊敬しています、なんて、きざなこと。」「それは、少しちがうね。」こんどは、さちよは、おどけた口調にかえっ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・私だって、女学校を出たきりで、特別になんの学問もありゃしない。たいへんな持参金があるわけでもない。父が死んだし、弱い家庭だ。それに、ごらんのとおりの、おたふくで、いい加減おばあさんですし、こちらこそ、なんのいいところも無い。似合いの夫婦かも・・・ 太宰治 「皮膚と心」
出典:青空文庫