・・・「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜っているのかい。「ハハハハ、お手の筋だ。「だって、後はどうするエ。一張羅を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。「案じなさんな、銭があらあ。「妙だねえ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ 女はここへ坐れと云うように暗示した。そして一寸会釈したように感じられたが、もの静かに去った。男は外国織物と思わるる稍堅い茵の上にむんずと坐った。室隅には炭火が顔は見せねど有りしと知られて、室はほんのりと暖かであった。 これだけの家・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・それでも私は遠く離れている子の上を案じ暮らして、自分が病気している間にも一日もあの山地のほうに働いている太郎のことを忘れなかった。郷里のほうから来るたよりはどれほどこの私を励ましたろう。私はまた次郎や三郎や末子と共に、どれほどそれを読むのを・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・のことを思って涙ぐむことがあるとしたところもあり、その中にはまた、父もこの家を見ることを楽しみにして郷里の土を踏むような日もやがて来るだろう、寺の鐘は父の健康を祈るかのように、山に沈む夕日は何かの深い暗示を自分に投げ与えるように消えて行くと・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・いつまでも処女で年ばかり取って行くようなお新の前途が案じられてならなかった。お新は面長な顔かたちから背の高いところまで父親似で、長い眉のあたりなぞも父親にそっくりであった。おげんが自分の娘と対いあって座っている時は、亡くなった旦那と対いあっ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・小母さんは毎日あなたの事ばかり案じていらっしゃるんですよ。今度またこちらへお出でになることになりましてから、どんなにお喜びでしたかしれません。……考えると不思議な御縁ですわね」「妙なものですね。この夏はどうしたことからでしたか、ふとこち・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・お伺い致します、と申し上げまして、その中野のお店の場所をくわしく聞き、無理にお二人にご承諾をねがいまして、その夜はそのままでひとまず引きとっていただき、それから、寒い六畳間のまんなかに、ひとり坐って物案じいたしましたが、べつだん何のいい工夫・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・黄昏の靄にぼかされて行く庭を眺めながら、僕はわずかの妥協をマダムに暗示してやった。「木下さんはあれでやはり何か考えているのでしょう。それなら、ほんとの休息なんてないわけですね。なまけてはいないのです。風呂にはいっているときでも、爪を切っ・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・彼のふるさとの先輩葛西善蔵の暗示的な述懐をはじめに書き、それを敷衍しつつ筆をすすめた。彼は葛西善蔵といちども逢ったことがなかったし、また葛西善蔵がそのような述懐をもらしていることも知らなかったのであるが、たとえ嘘でも、それができてあるならば・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・これに反して個々の研究者の直接の体験を記述した論文や著書には、たとえその題材が何であっても、その中に何かしら生きて動いているものがあって、そこから受ける暗示は読む人の自発的な活動を誘発するある不思議な魔力をもっている。そうして読者自身の研究・・・ 寺田寅彦 「案内者」
出典:青空文庫