・・・そこにはいつもの理髪店が、客の来ない椅子を並べて、白昼の往来を眺めているし、さびれた町の左側には、売れない時計屋が欠伸をして、いつものように戸を閉めている。すべては私が知ってる通りの、いつもの通りに変化のない、田舎の単調な町である。 意・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・テーブルも椅子もなかった。恐ろしく蒸し暑くて体中が悪い腫物ででもあるかのように、ジクジクと汗が滲み出したが、何となくどこか寒いような気持があった。それに黴の臭いの外に、胸の悪くなる特殊の臭気が、間歇的に鼻を衝いた。その臭気には靄のように影が・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・窓の下には幅の広い長椅子がある。先生は手紙をその上に置いて自身は馬乗りに椅子に掛けた。そして気の無さそうに往来を見卸した。 ちょうど午後三時である。Rue de la Faisanderie の大道は広々と目の下に見えていて、人通りは少・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その手前に肱突の椅子あり。柱ある処には硝子の箱を据え付け、その中に骨董を陳列す。壁にそいて右の方にゴチック式の暗色の櫃あり。この櫃には木彫の装飾をなしあり。櫃の上に古風なる楽器数個あり。伊太利亜名家の画ける絵のほとんど真黒になりたるを掛けあ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ それからテーブルと椅子をもって来て、きちんとすわり込みました。あまがえるはみんな、キーイキーイといびきをかいています。とのさまがえるはそこで小さなこしかけを一つ持って来て、自分の椅子の向う側に置きました。 それから棚から鉄の棒をお・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・今いる家は静かそうに思って移ったのですが、後に工場みたいなものがあって、騒々しいので、もう少し静かなところにしたいと思って先日も探しに行ったのですが、私はどちらかというと椅子の生活が好きな方で、恰度近いところに洋館の空いているのを見つけ私の・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・ 書類を持ち出して置いて、椅子に掛けて、木村は例の車掌の時計を出して見た。まだ八時までに十分ある。課長の出勤するまでには四十分あるのである。 木村は高い山の一番上の書類を広げて、読んで見ては、小さい紙切れに糊板の上の糊を附けて張って・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・ダントンがそれを食いたさに、椅子から転がり落ちたと云う代物だ」二 その日のナポレオンの奇怪な哄笑に驚いたネー将軍の感覚は正当であった。ナポレオンの腹の上では、径五寸の田虫が地図のように猖獗を極めていた。この事実を知っていたも・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ エルリングは椅子を出して己を掛けさせた。己はちょいと横目で、書棚にある書物の背皮を見た。グルンドヴィグ、キルケガアルド、ヤアコップ・ビョオメ、アンゲルス・シレジウス、それからギョオテのファウストなどがある。後に言った三つの書物は、背革・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ シモンズの書いた所によると、デュウゼは自分の好きな人と話をする時には、椅子から立ち上がって、その人のそば近くに腰を掛け、ほとんど顔が相触るるまで接近して、眼は広く見開く。大きな鳶色の瞳を囲んでいる白い所がすっかりと見えるほどだ。時々身・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫