一 機会がおのずから来ました。 今度の旅は、一体はじめは、仲仙道線で故郷へ着いて、そこで、一事を済したあとを、姫路行の汽車で東京へ帰ろうとしたのでありました。――この列車は、米原で一体分身して、分れ・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ 君が歌を作り文を作るのは、君自身でもいうとおり、作らねばならない必要があって作るのではなく、いわば一種のもの好き一時の慰みであるのだ。君はもとより君の境遇からそれで結構である。いやしくも文芸にたずさわる以上、だれでもぜひ一所懸命になっ・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・弾丸の雨にさらされとる気違いは、たとえ一時の状態とは云うても、そうは行かん。」「それで、君の負傷するまでには、たびたび戦ったのか、ね?」「いや、僕の隊は最初の戦争に全滅してしもたんや。――さて、これからが話の本文に這入るのやて――」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて俄に市価を生じたが、就中 喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏参詣が唯一の遊山であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・この貴重な秘庫を民間奇特者に解放した一事だけでも鴎外のような学術的芸術的理解の深い官界の権勢者を失ったのは芸苑の恨事であった。 鴎外は早くから筆蹟が見事だった。晩年には益々老熟して蒼勁精厳を極めた。それにもかかわらず容易に揮毫の求め・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・博文館は少くも世間を騒がし驚かした一事に於て成功した。小生は此の「大家論集」の愛読者であった。小生ばかりでなく、当時の貧乏なる読書生は皆此の「大家論集」の恩恵を感謝したであろう。 博文館が此の揺籃地たる本郷弓町を離れて日本橋の本町――今・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・この一事を見ても、子供心に信仰を有たしめるものは、全く母の感化である。 最近の新聞紙は、三山博士の子供が三人共家出をして苦しんでいるという事実を伝えている。その記事に依ると、本当の母親は小さいうちに死んでしまって、継母の手に育ったという・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ちょうど真夜中の一時から、二時ごろにかけてでありました。夜の中でも、いちばんしんとした、寒い刻限でありました。「いまごろは、だれも、この寒さに、起きているものはなかろう。木立も、眠っていれば、山にすんでいる獣は、穴にはいって眠っているで・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・たゞ、自分の理想に生きるということ、正義のために戦わなければならぬということ、そして、要するに、人間は、いかなる職業にあっても、その心がけが、社会のためにつくすという一事に於て、全的生涯が完うされるものだということを感じているのであります。・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・「お前さん、それじゃ私を一時の慰物にしといて、棄てるんだね。」と女房はついに泣声を立てて詰寄せた。「慰物にしたんかしねえんか、そんなことあ考えてもみねえから自分でも分らねえ、どうともお前の方で好なように取りねえ、昨日は昨日、今日は今・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫