・・・家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきた・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・細君は総てをそこに置いたまま去って終う、一口に云えば食客の待遇である。予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。 予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ま・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・一行、一句にも心を捕えられ、恍惚として、耽読せしむるものは、即ち知己であり、その著者と向志を同じくするがためです。眼だけは、文字の上に止っても、頭で他のことを空想するように、感ずる興味の乏しいものは、その書物と読む者の間が、畢竟、無関係に置・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠の妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・うちに一口だけ噛らせて」「一口だけ言わんと、ぎょうさん食べ!」 ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」 いじらしい許りの自己紹介だった。「ふーん・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・にもずり落ちそうな、ついでに水洟も落ちそうな、泣くとき紐でこしらえた輪を薄い耳の肉から外して、硝子のくもりを太短い親指の先でこすって、はれぼったい瞼をちょっと動かす、――そんな仕種まで想像される、――一口に言えば爺むさい掛け方、いいえ、そん・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・からですが、高木卓氏が終りが弱いといわれるのも、あなたが題が弱いといわれるのも、つまりは結びの一句が「坂田は急ににこにこした顔になった。そうして雨の音を聞いた」となっていることをいわれたのであろうと思います。どういう雨かとのお問いですが、は・・・ 織田作之助 「吉岡芳兼様へ」
・・・ 耕吉は最後の一句に止めを刺されたような気がして、恐縮しきって、外へ出た。 銀座の方へ廻ると言って電車に乗った芳本と別れて、耕吉は風呂敷包を右に左に持替えて、麹町の通りを四谷見附まで歩いた。秋晴の好天気で、街にはもう御大典の装飾がで・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・べからず候なお細々のことは嫂かき添え申すべく候右認め候て後母様の仰せにて仏壇に燈ささげ候えば私が手に扶けられて母様は床の上にすわりたまいこの遺言父の霊にも告げてはと読み上げたもう御声悲しく一句読みては涙ぬぐい一句読みてはむせびた・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例の圧しつけるような言振で問うた。「一口には言えない」「まさか狼の丸焼で一杯飲みたいという洒落でもなかろう?」「まずそんなことです。……実は僕、或少女に懸想したことがあります」と・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
出典:青空文庫