・・・ 蛇の皮をはいだり、蛙を踏みつぶして、腹ワタを出したりするのは、一向、平気なものだ。一体百姓は、そんなことは平気でやる。、それくらいの惨酷さは、いくらでも持合わしている。小説の中でなら、百人くらいの人間は殺して居るだろう。人を殺すことや・・・ 黒島伝治 「自画像」
・・・ 一町ほど向うの溝の傍で、枯木を集めようとして、腰をのばすと浜田は、溝を距てゝ、すこし高くなった平原の一帯に放牧の小牛のような動物が二三十頭も群がって鼻をクンクンならしながら、三人をうかがっているのを眼にとめた。「おい、蒙古犬だ!」・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・「今年は、こちらだけでなく北海道も一帯にキキンという話だ、年貢をおさめて、あとにはワラも残らず……」和田はそれを読んでいた。と、そこへ伍長が、江原を呼びに来た。「何か用事ですか?」江原は不安げに反問した。「何でもいい。そのまま来・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・部落一帯の田畑は殆んど耕されていなかった。小作人は、皆な豚飼いに早替りしていた。 たゞ、小作地以外に、自分の田畑を持っている者だけが、そこへ麦を蒔いていた。それが今では、三尺ばかりに伸びて穂をはらんでいる。谷間から丘にかけて一帯に耕地が・・・ 黒島伝治 「豚群」
その一 ここは甲州の笛吹川の上流、東山梨の釜和原という村で、戸数もいくらも無い淋しいところである。背後は一帯の山つづきで、ちょうどその峰通りは西山梨との郡堺になっているほどであるから、もちろん樵夫や猟師でさえ踏・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・になっているところ一体に桑が仕付けてあるその遥に下の方の低いところで、いずれも十三四という女の児が、さすがに辺鄙でも媚き立つ年頃だけに紅いものや青いものが遠くからも見え渡る扮装をして、小籃を片手に、節こそ鄙びてはおれど清らかな高い徹る声で、・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・「こゝン中にいて、一体誰に見せるんだ。」と云って、クッ、クッと笑った。「そうか、そうか、分った。面会に来る女があるんだろうからな――」 それで俺の髪だけは助った。然しこの理髪師はニキビであろうが、何んであろうが、上から下へ一・・・ 小林多喜二 「独房」
右手に十勝岳が安すッぽいペンキ画の富士山のように、青空にクッキリ見えた。そこは高地だったので、反対の左手一帯はちょうど大きな風呂敷を皺にして広げたように、その起伏がズウと遠くまで見られた。その一つの皺の底を線が縫って、こっ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・七「他人のものを当にしちゃアいかん、他人のものを当にして物を貰うという心が一体賤しいじゃアないか」内儀「賤しいたって貴方、お米を買うことが出来ませんよ、今日も米櫃を払って、お粥にして上げましたので」七「それは/\苦々しいことで」・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・「ここは何処だらず。一体、俺は何処へ来ているのだずら」「小山さんも覚えが悪い。ここは根岸の病院じゃありませんか。あなたが一度いらしったところじゃ有りませんか」 おげんは中年の看護婦と言葉をかわして見て、電気にでも打たれるような身・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫