・・・ 龍介はこの事以来自分に疲れてきた。すべて自信がもてない。ものをハッキリ決めれない、なぜか、そうきめるとそれが変になってしまうように思われた。 ……龍介は今暗がりへ身を寄せたとき、犬より劣っている自分を意識した。 三・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・受けたまま返辞なければ往復端書も駄目のことと同伴の男はもどかしがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は卒業証書授与式以来の胸躍らせもしも伽羅の香の間から扇を・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪い谷の下にあるような私の家の四畳半・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ それ以来小母さんたちがちょっとでも藤さんの事を言いだすと、自分はたちまち二日の記憶を抱いて遁げて行くのであった。どんな場合でもすぐ遁げる。どうしても遁げられない時には、一生懸命にほかのことを心の中で考え続けて、話は少しも耳へ入れぬよう・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・、東京の大学へはいるとすぐに、袴をはいて井伏さんのお宅に伺い、それからさまざま山ほど教えてもらい、生活の事までたくさんの御面倒をおかけして、そうしてただいま、その井伏さんの選集を編むことを筑摩書房から依頼されて、無量の思いも存するのである。・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 私はそのとき以来、兄たちが夏休み毎に東京から持って来るさまざまの文学雑誌の中から、井伏さんの作品を捜し出して、読み、その度毎に、実に、快哉を叫んだ。 やがて、井伏さんの最初の短篇集「夜ふけと梅の花」が新潮社から出版せられて、私はそ・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・こんな妙な依頼は、さすがに私も生れてこのかた、はじめての事であった。言いながら、顔が真赤になって行くのを意識した。まさに冷汗ものであったのである。宿の番頭は、妙な顔をしてにこりともせず、下駄をつっかけて出て行った。 私は部屋で先生と黙っ・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・ただいま友人、大隅忠太郎君から、結納ならびに華燭の典の次第に就き電報を以て至急の依頼を受けましたが、ただちに貴門を訪れ御相談申上げたく、ついては御都合よろしき日時、ならびに貴門に至る道筋の略図などをお示し下さらば幸甚に存じます、と私も異様に・・・ 太宰治 「佳日」
数年前に「ボーヤ」と名づけた白毛の雄猫が病死してから以来しばらくわが家の縁側に猫というものの姿を見ない月日が流れた。先年、犬養内閣が成立したとおなじ日に一羽のローラーカナリヤが迷い込んで来たのを捕えて飼っているうち、ある朝・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・ 大正四、五年頃、今は故人となった佐野静雄博士から伊豆伊東の別荘に試植するからと云って土佐の楊梅の苗を取寄せることを依頼された。郷里の父に頼んで良種を選定し、数本の苗を東京へ送ってもらった。これがさらに佐野博士の手で伊東に送られ移植され・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
出典:青空文庫