・・・ いっそ死んでしまおうかしらんと考えながら、彼は、下を向いてとぼとぼと歩いてきました。いろいろな人たちが、その道の上をば歩いていましたけれど、少年の目には、その人たちに心をとめてみる余裕もなかったのであります。 やはり、下を向いて歩・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・ はいろうとした途端、中から出て来た一人の男がどすんと豹吉に突き当りざまに豹吉の上衣のかくしへ手を入れようとした。「間抜けめ!」 低いが、豹吉の声は鋭かった。 男はあっと自分の手首を押えた。血が流れていたのだ。 鋭利な刃・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・そして彼は三百の云うなりになって、八月十日限りといういろ/\な条件附きの証書をも書かされたのであった。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の実家へ金策に発たしてやったのであった。……「なんだってあの人はあゝ怒ったの?」「やっぱし僕・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 後生だから、しばらく踏み外さないでいろよ。お前はすぐ爪を立てるのだから。 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ ええ引ッ込んでいろ。手前の知ったことではないわ。と思わぬ飛※を吹きぬ。 それは大事な魂胆をお聞き及びになりましたので、と熱心に傾聴したる三好は顔を上げて、してそのことはどのような条規を具えているものに落札することになりましょうか。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・『豊吉が何をしでかすものぞ、五年十年のうちにはきっと蒼くなって帰って来るから見ていろ。』『なぜ?』その席にいた豊吉の友が問うた。 老人は例の雪のような髭髯をひねくりながらさみしそうに悲しそうに、意地のわるそうに笑ったばかりで何と・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・あまりたびたび言うので一度参りますると、一時間も二時間も止めて還さないで膝の上に抱き上げたり、頸にかじりついたり、頭の髪を丁寧に掻き下してなお可愛くなったとその柔らかな頬を無理に私の顔に押しつけたり、いろいろな真似をするのでございます。・・・ 国木田独歩 「女難」
いろ/\なものを読んで忘れ、また、読んで忘れ、しょっちゅう、それを繰りかえして、自分の身についたものは、その中の、何十分の一にしかあたらない。僕はそんな気がしている。がそれは当然らしい。中には、毒になるものがあるし、また、・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・じいっと向うを見て、真直に立っていろ、と云ったのであった。しかし老人は、恐怖と、それが嘘であることを感じていた。彼は鼻も口も一しょになってしまうような泣き面をした。「俺は殺され度くない。いつ、そんな殺されるような悪いことをしたんだ!」と眼は・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・が、そこにもまた、いろいろな手段がとられていて、先日東京から来たある友達の話によると、外米の入っていない県にいる親戚に頼んだり、女中さんの田舎へ云ってやったりして、送ってもらっている者がだいぶあるとか。旱魃を免れた県には、米穀県外移出禁止と・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
出典:青空文庫