・・・多くの人の玩弄物になると同時に、多くの人を弄んで、浮きつ沈みつ定めなき不徳と淫蕩の生涯の、その果がこの河添いの妾宅に余生を送る事になったのである。深川の湿地に生れて吉原の水に育ったので、顔の色は生れつき浅黒い。一度髪の毛がすっかり抜けた事が・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・川竹の憂き身をかこつ哥沢の糸より細き筆の命毛を渡世にする是非なさ……オット大変忘れたり。彼というは堂々たる現代文士の一人、但し人の知らない別号を珍々先生という半可通である。かくして先生は現代の生存競争に負けないため、現代の人たちのする事は善・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・或日再び小石川を散歩した。雨気を含んで重苦しい夕風が焼跡の石の間に生えた雑草の葉を吹きひるがえしているのを見た。 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処を得顔・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・住み憂き土地にはあれどわれ時折東京をよしと思うは偶然かかる佳景に接する事あるがためなり。 巴里にては夏のさかりに夕立なし。晩春五月の頃麗都の児女豪奢を競ってロンシャンの賽馬に赴く時、驟雨濺来って紅囲粉陣更に一段の雑沓を来すさま、巧にゾラ・・・ 永井荷風 「夕立」
・・・女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦が浮き上って、瞼にはさっと薄き紅を溶く。「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目にきく。「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹の糸、夜と昼との界なる夕暮の糸、恋の色、恨みの色は無・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚の唇をぴりぴりと動かす。「今日のみの縁とは? 墓に堰かるるあの世までも渝らじ」・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。 舟は杳然として何処ともなく去る。美しき亡骸と、美しき衣と、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐら・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという事を、ついぞ経験した事がない。ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりする・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ 太陽はいまはすっかり午睡のあとの光のもやを払いましたので山脈も青くかがやき、さっきまで雲にまぎれてわからなかった雪の死火山もはっきり土耳古玉のそらに浮きあがりました。 洋傘直しは引き出しから合せ砥を出し一寸水をかけ黒い滑らかな石で・・・ 宮沢賢治 「チュウリップの幻術」
・・・ 皮相的な、浮きあがった表現の著しい例をわれわれは、この小説のクライマックスともいうべき「共同視察」の場面に発見する。ドヤドヤと視察者が入ってくる。佐田はさすがに「厄介なことになった」と思うが、あくまで自由な質問応答をやり、「活溌にやる・・・ 宮本百合子 「一連の非プロレタリア的作品」
出典:青空文庫