・・・毎年の浅草の年の市には暮の餅搗に使用する団扇を軽焼の景物として出したが、この団扇に「景物にふくの団扇を奉る、おまめで年の市のおみやげ」という自作の狂歌を摺込んだ。この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を煽ぐと運が向いて来ると・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・今日のような思想上の戦国時代に在っては文人は常に社会に対する戦闘者でなければならぬが、内輪同士では年寄の愚痴のような繰言を陳べてるが、外に対しては頭から戦意が無く沈黙しておる。 二十五年の歳月が聊かなりとも文人の社会的位置を進めたのは時・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、息絶える。鈴虫らしい。八月八日、立秋と、暦を見るまでもなく、ああ、もう秋だな、と私は感ずるのである。ひと一倍早く……。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・、私は全身汗が走り、寝ぼけたような回転を続けている扇風機の風にあたって、むかし千日前の常磐座の舞台で、写真の合間に猛烈な響を立てて回転した二十吋もある大扇風機や、銭湯の天井に仕掛けたぶるんぶるん鳴る大団扇をを想い出しながら、「しる市」を出る・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・宵に脱ぎ捨てた浴衣をまた着て、机の前に坐り直した拍子に部屋のなかへ迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って団扇ではたくと、チリチリとあわれな鳴き声のまま息絶えて、秋の虫であった。遠くの家で赤ん坊が泣きだした、なかなか泣きやまない。その家の人びと・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・と言って煙管の詰まったのを気にしていた。 奥の間で信子の仕度を手伝ってやっていた義母が「さあ、こんなはどうやな」と言って団扇を二三本寄せて持って来た。砂糖屋などが配って行った団扇である。 姉が種々と衣服を着こなしているのを見なが・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・舷の触れ合う音、とも綱の張る音、睡たげな船の灯、すべてが暗く静かにそして内輪で、柔やかな感傷を誘った。どこかに捜して宿をとろうか、それとも今の女のところへ帰ってゆこうか、それはいずれにしても私の憎悪に充ちた荒々しい心はこの港の埠頭で尽きてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・まうなれど夏はそうもできず、置座を店の向こう側なる田のそばまで出しての夕涼み、お絹お常もこの時ばかりは全くの用なし主人の姪らしく、八時過ぎには何も片づけてしまい九時前には湯を済まして白地の浴衣に着かえ団扇を持って置座に出たところやはりどこと・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・夫婦は燈つけんともせず薄暗き中に団扇もて蚊やりつつ語れり、教師を見て、珍らしやと坐を譲りつ。夕闇の風、軽ろく雨を吹けば一滴二滴、面を払うを三人は心地よげに受けてよもやまの話に入りぬ。 その後教師都に帰りてより幾年の月日経ち、ある冬の夜、・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ったりとしている上に、職人上りとは誰にも見せぬふさふさとした頤鬚上髭頬髯を無遠慮に生やしているので、なかなか立派に見える中村が、客座にどっしりと構えて鷹揚にまださほどは居ぬ蚊を吾家から提げた大きな雅な団扇で緩く払いながら、逼らぬ気味合で眼の・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
出典:青空文庫