・・・ 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならん・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・男は確かに砂埃りにまみれたぼろぼろの上衣を着用している。常子はこの男の姿にほとんど恐怖に近いものを感じた。「何か御用でございますか?」 男は何とも返事をせずに髪の長い頭を垂れている。常子はその姿を透かして見ながら、もう一度恐る恐る繰・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・沢本 おうい、ドモ又……と、あの、貴様のその上衣をよこせ、貴様の兄貴に着せるんだから。その代わりこれを着ろ……ともちゃん花が取れたかい。それか。それをおくれ、棺を飾るんだから……沢本退場。……戸部ととも子寄り添わんとす。別・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・さて黒の上衣を着る。髯を綺麗に剃った顋の所の人と違っている顔が殊更に引き立って見える。食堂へ出て来る。 奥さんは遠慮らしく夫の顔を一寸見て、すぐに横を向いて、珈琲の支度が忙しいというような振をする。フレンチが一昨日も昨日も感じていて、友・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺の勝った糸織の大名縞の袷に、浴衣を襲ねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄ら寒し、着換えるも面倒なりで、乱箱に畳んであった着物を無造作に引摺出して、上着だけ引剥いで着込んだ証拠に、襦袢も羽・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ といいあえず、上着の片褄掻取りあげて小刻に足はやく、颯と芝生におり立ちぬ。高津は見るより、「あら、まだそんなことをなすッちゃいけません。いけませんよ。」 と呼び懸けながら慌しく追い行きたる、あとよりして予は出でぬ。 木戸の・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・省作は無頓着で白メレンスの兵児帯が少し新しいくらいだが、おはまは上着は中古でも半襟と帯とは、仕立ておろしと思うようなメレンス友禅の品の悪くないのに卵色の襷を掛けてる。背丈すらっとして色も白い方でちょっとした娘だ。白地の手ぬぐいをかぶった後ろ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・尤も一枚こっきりのいわゆる常上着の晴着なしであったろうが、左に右くリュウとした服装で、看板法被に篆書崩しの齊の字の付いたお抱え然たる俥を乗廻し、何処へ行っても必ず俥を待たして置いた。例えば私の下宿に一日遊んでる時でも、朝から夜る遅くまでも俥・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・作業服のように上衣とズボンが一つになっていて、真中には首から股のあたりまでチャックがついている。二つに割れる仕掛になっているのかと私は思わず噴き出そうとした途端、げっと反吐がこみあげて来た。あわてて口を押え、「食塩水……」をくれと情ない・・・ 織田作之助 「世相」
・・・案の定、上着もチョッキもなかった。質入れしたのだ、ときくまでもなくわかり、私ははじめてあの人を折檻した。自分がヒステリーになったかと思ったくらい、きつく折檻した。しかし、私がそんな手荒なことをしたと言って、誰も責めないでほしい。私の身になっ・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
出典:青空文庫