・・・ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。 右舷に見える赤裸の連山はシナイに相違ない、左舷にはいくつともなくさまざまの島を見て通る。夕方には左にアフリカの連山が見え・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・延若だの団十郎だの蝦十郎だの、名優の名がそのころ彼の耳についていた。金が夢のように費いはたされて、彼らが零落の淵に沈む前に、そうしたこの町相当の享楽時代があった。道太の見たのはおそらくその末期でしかなかったが、彼女はその時代を知っていた。・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・むかしから東京の人が口にし馴れた果物は、西瓜、真桑瓜、柿、桃、葡萄、梨、粟、枇杷、蜜柑のたぐいに過ぎなかった。梨に二十世紀、桃に白桃水蜜桃ができ、葡萄や覆盆子に見事な改良種の現れたのは、いずれも大正以後であろう。 大正の時代は今日よりし・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・われわれは新しい流行の帽子を買うためにも、遠い国から来た葡萄酒を買うためにも、無論この銀座へ来ねばならぬが、それと同時に、有楽座などで聞く事を好まない「昔」の歌をば、なりたけ「昔」らしい周囲の中に聞き味おうとすればやはりこの辺の特種な限られ・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、春水が手錠はめられ海老蔵は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯の海の波風に、命の筆の水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光で、向角に高く低く不揃に立っている幾棟の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一ツ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄もあった。胡桃もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余の地下にはカーライルの愛犬ニロが葬むられております。ニロは千八百六十年二月一・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・今日会社の帰りに池の端の西洋料理屋で海老のフライを食ったが、ことによるとあれが祟っているかもしれん。詰らん物を食って、銭をとられて馬鹿馬鹿しい廃せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓を粉に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」「海老のようになるって?」「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫