・・・父親はなにかいっていましたが、やがて半分ばかり床の中から体を起こして、やせた手でその金貨を三人の娘らに分けてやりました。 この光景を見たさよ子は、なんとなく悲しくなりました。そして家へ帰る路すがら、自分もいつかお父さんや、お母さんに別れ・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ また、かゝる日に自己の興を求めて殺生した事実について考えさせられたこともなかった。 真面目に自己というものを考える時は常に色彩について、嗅覚に付て、孤独を悲しむ感情に付て、サベージの血脈を伝えたる本能に付て、最も強烈であり、鮮かで・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・頬に流れ落ちる滴を拭いもやらずに、頤を襟に埋めたまま、いつまでもいつまでもじッと考え込んでいたが、ふと二階の呻り声に気がついて、ようやく力ない体を起したのであった。が、階子段の下まで行くと、胸は迫って、涙はハラハラととめどなく堰き上ぐるので・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・私がヒステリー起こした時は、ご飯かて、たいてくれます。洗濯かて、せえ言うたら、してくれます。ほんまによう機嫌とります。けど、あんまり機嫌とられると、いやですねん。なんやこう、むく犬の尾が顔にあたったみたいで、気色がわるうてわるうてかないませ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・巡業そのものに、そして、そんなことを思いつくお前という人間に、興味を感じたのだ。お前のような人間に……つまりは、腐れ縁といった方が早い。「社会奉仕」というからには、あくまで善は急ぐべしと、早速おかね婆さんを連れて、三人で南河内の狭山へ出・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・踊子の太った足も、場末の閑散な冬のレヴュ小屋で見れば、赤く寒肌立って、かえって見ている方が悲しくうらぶれてしまう。興冷めた顔で洟をかんでいると、家人が寝巻の上に羽織をひっかけて、上って来た。砂糖代りのズルチンを入れた紅茶を持って来たのである・・・ 織田作之助 「世相」
・・・空の胃袋は痙攣を起したように引締って、臓腑が顛倒るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと煽付ける。 精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。 全く敗亡て、ホウとなって、殆ど人心地なく臥て居た。ふッと……いや心の迷の空耳・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・嘔吐を催させるような酒の臭い――彼はまだ酔の残っているふら/\した身体を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲団もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠っていた。 朝飯を済まして、書留だったらこれを出せと云って子供に認印・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・わずか数浬の遠さに過ぎない水平線を見て、『空と海とのたゆたいに』などと言って縹渺とした無限感を起こしてしまうなんぞはコロンブス以前だ。われわれが海を愛し空想を愛するというなら一切はその水平線の彼方にある。水平線を境としてそのあちら側へ滑り下・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチー・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫