・・・こうした雲の変化ほど見る人の心に言い知れぬ深い感情を喚び起こすものはない。その変化を見極めようとする眼はいつもその尽きない生成と消滅のなかへ溺れ込んでしまい、ただそればかりを繰り返しているうちに、不思議な恐怖に似た感情がだんだん胸へ昂まって・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 生一本の酒を飲むことの自由自在、孫悟空が雲に乗り霧を起こすがごとき、通力を持っていたもう「富豪」「成功の人」「カーネーギー」「なんとかフェラー」、「実業雑誌の食い物」の諸君にありてはなんでもないでしょう、が、われわれごときにありては、・・・ 国木田独歩 「号外」
・・・金儲けと財産だけしか頭にない嚊の親や、兄弟が、どんな疑心を僕に対して起すかは、云わずとも知れた話である。スパイは、僕等の結婚や、お祝いごとまでも妨害するのだ。僕は、若し、いつか親爺が死んだら、子として、親爺の霊を弔わなければならない。子とし・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・次には路央に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すようなりぬ。 二十九日、汽車の中・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・きいた事を提出致しまして、そして皆さんの思召に酬いる、というような巧なる事はうまく出来ませぬので、已むを得ず自分の方の圃のものをば、取り繕いもしませんで無造作に持出しまして、そして御免を蒙るという事に致すことにしました。ちょうど温かい心もち・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追われて、月日を送るという境涯でも、あの蛙が旅情をそそるように鳴出す頃になると、妙に寂しい思想を起す。旅だ――五月が自分に教えるのである・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞え・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。然し当節のように・・・ 太宰治 「三月三十日」
・・・あんな者にも、礼儀を、いやいや、へつらいを致す必要なんて絶対にない。いやだ。もう、これ以上は厭だ。私は、つとめられるだけは、つとめたのだ。お母さんだって、きょうの私のがまんして愛想よくしている態度を、嬉しそうに見ていたじゃないか。あれだけで・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・なる言辞を吐き、帰りしなにふいと、老人、気をつけ給え、このごろ不良の学生たちを大勢集めて気焔を揚げ、先生とか何とか言われて恐悦がっているようだが、汝は隣組の注意人物になっているのだぞ、老婆心ながら忠告致す、と口速に言いてすなわち之が捨台詞と・・・ 太宰治 「花吹雪」
出典:青空文庫