・・・けれども、伯耆国の淀江村というところに住んでいる一老翁が、自分の庭の池に子供の時分から一匹の山椒魚を飼って置いた、それが六十年余も経って、いまでは立派に一丈以上の大山椒魚になって、時々水面に頭を出すが、その頭の幅だけでも大変なもので、幅三尺・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとった・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・米寿の祝いに赤い胴着を着せられた老翁の姿を思い出した。今の此のむずかしい世の中に、何一つ積極的なお手伝いも出来ず、文名さえも一向に挙らず、十年一日の如く、ちびた下駄をはいて、阿佐ヶ谷を徘徊している。きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召し・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ある時彼の伯父に当る人で、工業技師をしているヤーコブ・アインシュタインに、代数学とは一体どんなものかと質問した事があった。その時に伯父さんが「代数というのは、あれは不精もののずるい計算術である。知らない答をXと名づけて、そしてそれを知ってい・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・の父親か祖父ではないかと思われるのであった。 つい近ごろになってある新聞にいろいろなペットの話が連載されているうちに知名の某家の猫のことが出ていて、その三匹の猫の写真が掲載されていた。そのうちの一匹がどうも前述のいわゆるアンゴラに似てい・・・ 寺田寅彦 「ある探偵事件」
・・・の上を静かに流れる雲の影のシーンには、言い知らぬ荒涼の趣があり慰めのない憂愁を含んでいるが、ここでは反対に旺盛な活力の暗示がある。そうしてそのあとに豊富な果樹の収穫の山の中に死んで行く「過去」の老翁の微笑が現われ、あるいはまた輝く向日葵の花・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・この時われは裏道を西向いてヨボヨボと行く一人の老翁を認めた。乞食であろう。その人の多様な過去の生活を現わすかのような継ぎはぎの襤褸は枯木のような臂を包みかねている。わが家の裏まで来て立止った。そして杖にすがったまま辛うじてかがんだ猫背を延ば・・・ 寺田寅彦 「凩」
映画「マルガ」で猿の親子連れの現われる場面がある。その猿の子供の方が親猿のよりもずっとよく人間に似ている。しかも、それは人間のうちでも老人の顔に似ている。そうして老翁よりはより多く老婆の顔に似ているのである。それで、人間が・・・ 寺田寅彦 「猿の顔」
・・・ ずっと前のことであるが、ある夏の日銀座の某喫茶店に行っていたら、隣席に貧しげな西洋人の老翁がいて、アイスクリームを食っていた。それが、通りかかったボーイを呼び止めて何か興奮したような大声で「カントクサン、呼んでください。カントクサン、・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・おそらくこれらの店の人にとって、今頃石油ランプの事などを顧客に聞かれるのは、とうの昔に死んだ祖父の事を、戸籍調べの巡査に聞かれるような気でもする事だろう。 ある店屋の主人は、銀座の十一屋にでも行ったらあるかも居〔知〕れないと云って注意し・・・ 寺田寅彦 「石油ランプ」
出典:青空文庫