・・・が、やがて話が終ると、甚太夫はもう喘ぎながら、「身ども今生の思い出には、兵衛の容態が承りとうござる。兵衛はまだ存命でござるか。」と云った。喜三郎はすでに泣いていた。蘭袋もこの言葉を聞いた時には、涙が抑えられないようであった。しかし彼は膝を進・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・と同時にまた、昔の放埓の記憶を、思い出すともなく思い出した。それは、彼にとっては、不思議なほど色彩の鮮な記憶である。彼はその思い出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云った里げしきの「さすが・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・――洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間は不承不承に、一昨年ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂をしていた。「慎ちゃんの所はどうおしだえ? お父さんは知らせた方が好いとか云ってお出でだったけれど。」 その・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そしてしかたなしに監督に向きなおって、その父に当たる人の在世当時の思い出話などをして一人興がった。「元気のいい老人だったよ、どうも。酔うといつでも大肌ぬぎになって、すわったままひとり角力を取って見せたものだったが、どうした癖か、唇を締め・・・ 有島武郎 「親子」
・・・さればお紺の婀娜も見ず、弥次郎兵衛が洒落もなき、初詣の思い出草。宿屋の硯を仮寝の床に、路の記の端に書き入れて、一寸御見に入れたりしを、正綴にした今度の新版、さあさあかわりました双六と、だませば小児衆も合点せず。伊勢は七度よいところ、いざ御案・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と言ったばかり、ちょいと言葉が途絶えましたから、小宮山は思い出したように、「何と云うのだね、お前さんは。」「手前は柏屋でございます。」 小宮山は苦笑を致しましたが、已む事を得ず、「それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げること・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・といった、若い上野先生の言葉が記憶に残っていて、そして、いつのまにか、その好きだった先生のことを思い出していたのであります。 すでに、彼女は、いくつかの停留場を電車にも乗ろうとせず通りすごしていました。ものを考えるには、こうして暗い道を・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 娘は、赤いろうそくを、自分の悲しい思い出の記念に、二、三本残していったのであります。五 ほんとうに穏やかな晩のことです。おじいさんとおばあさんは、戸を閉めて、寝てしまいました。 真夜中ごろでありました。トン、トン、・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・ 娘は、赤い蝋燭を自分の悲しい思い出の記念に、二三本残して行ってしまったのです。五 ほんとうに穏かな晩でありました。お爺さんとお婆さんは、戸を閉めて寝てしまいました。 真夜中頃であります。とん、とん、と誰か戸を叩く者・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
・・・ところがこの頃の髪にはそれを思い出させるのがあります。わげがその口の形をしているのです。その絵に対する私の嫌悪はこのわげを見てから急に強くなりました。 こんなことを一々気にしていては窮屈で仕方がありません。然しそう思ってみても逃げられな・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫