・・・こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を重い荷車の轍で轢かれるのでした。 天使でありますから、たとえ破られても、焼かれても、また轢かれても、血の出るわけではなし、また痛いということもなかったのです。ただ、この地上にいる間は・・・ 小川未明 「飴チョコの天使」
・・・明朝になって旅籠代がないと聞いた時の、あの無愛相な上さんの顔が思いやられる。 そのうちに、階下の八角時計が九時を打った。それから三十分も経ったと思うころ、外から誰やら帰ってきた気勢で、「もう商売してきたの、今夜は早いじゃないか。」と・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・し、おまけに上さんは美しいし、このまま行けば天下泰平吉新万歳であるが、さてどうも娑婆のことはそう一から十まで註文通りには填まらぬもので、この二三箇月前から主はブラブラ病いついて、最初は医者も流行感冒の重いくらいに見立てていたのが、近ごろよう・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・来ない、しかもこの時は、非常に息苦しくて、眼は開いているが、如何しても口が利けないし、声も出ないのだ、ただ女の膝、鼠地の縞物で、お召縮緬の着物と紫色の帯と、これだけが見えるばかり、そして恰も上から何か重い物に、圧え付けられるような具合に、何・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・女の方が年上だなと思いながら、宿帳を番頭にかえした。「蜘蛛がいるね」「へえ?」 番頭は見上げて、いますねと気のない声で言った。そしてべつだん捕えようとも、追おうともせず、お休みと出て行った。 私はぽつねんと坐って、蜘蛛の跫音・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・たいていは馬の肢が折れるかと思うくらい、重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門なのだ。鞭でたたかれながら弾みをつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、轍が空まわりする。馬はずるずる後退しそうになる。石畳の上に爪立てた蹄・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若しやに覊されて…… 這って行く。脚が地に泥んで、一と動する毎に痛さは耐きれないほど。うんうんという唸声、それが頓て泣声になるけれど、それにも屈ずに這って行く。やッと這付く。そら吸筒・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・触れば益々痛むのだが、その痛さが齲歯が痛むように間断なくキリキリと腹をむしられるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで朧気ながら分ったが、さて合点の行かぬは、何故此儘にして置いたろう? 豈然とは思うが、もしヒョッと味方敗北・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・けれどもすっかり陥没し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思いがけない救いの手が出て来るかも知れないのだし、また福運という程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑えずに活きて行けるような新しい道が見出せないと・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・が、あの高い煉瓦塀の中でのいっさいの自由を奪われたような苦役生活の八年間――どれほどの重い罪を犯したものか、自分なんかにはほとんど想像もつかないことではあるが、何しろ彼はまだ当年十九歳の、いわばまだ少年と言っていい年齢だったのだ。それがそれ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
出典:青空文庫