・・・その日は薄雲が空に迷って、朧げな日ざしはありながら、時々雨の降る天気であった。二人は両方に立ち別れて、棗の葉が黄ばんでいる寺の塀外を徘徊しながら、勇んで兵衛の参詣を待った。 しかしかれこれ午近くなっても、未に兵衛は見えなかった。喜三郎は・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍の禄盗人のと悪口を申して居るようでございます。岡林杢之助殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類縁者が申し合せて、詰腹を斬らせたのだなどと云う風評がございました。またよしんばそうでないにして・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、――たとえば、雪に伏せる竹と趣を一にすと云うを得べし。 この強からざるが故に強き特色は、江戸っ児の全面たらざるにもせよ、江戸っ児の全面に近・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・霙と日の光とが追いつ追われつして、やがて何所からともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか耡起されなかったけれども、それでも秋播小麦を播きつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のお蔭で一冬分の燃料にも差支ない準備は出来・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・、照り続く八月の熱で煮え立って、総ての濁った複色の彩は影を潜め、モネーの画に見る様な、強烈な単色ばかりが、海と空と船と人とを、めまぐるしい迄にあざやかに染めて、其の総てを真夏の光が、押し包む様に射して居る。丁度昼弁当時で太陽は最頂、物の影が・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日は麗かに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そういう声があちらこちらで私語かれた。クララは心の中で主の祈を念仏のように繰返・・・ 有島武郎 「クララの出家」
この犬は名を附けて人に呼ばれたことはない。永い冬の間、何処にどうして居るか、何を食べて居るか、誰も知らぬ。暖かそうな小屋に近づけば、其処に飼われて居る犬が、これも同じように饑渇に困められては居ながら、その家の飼犬だというの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・この度や蒋侯神、白銀の甲冑し、雪のごとき白馬に跨り、白羽の矢を負いて親しく自ら枕に降る。白き鞭をもって示して曰く、変更の議罷成らぬ、御身等、我が処女を何と思う、海老茶ではないのだと。 木像、神あるなり。神なけれども霊あって来り憑る。山深・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・……第一見えそうな位置でもないのに――いま言った黄昏になる頃は、いつも、窓にも縁にも一杯の、川向うの山ばかりか、我が家の町も、門も、欄干も、襖も、居る畳も、ああああ我が影も、朦朧と見えなくなって、国中、町中にただ一条、その桃の古小路ばかりが・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・は、フロックコート着たる紳士、制服着けたる武官、あるいは羽織袴の扮装の人物、その他、貴婦人令嬢等いずれもただならず気高きが、あなたに行き違い、こなたに落ち合い、あるいは歩し、あるいは停し、往復あたかも織るがごとし。予は今門前において見たる数・・・ 泉鏡花 「外科室」
出典:青空文庫