・・・然しそれを繰りかえしているうちに、俺は久し振りで長い間会わないこの愚かな母親の心に、シミ/″\と触れることが出来た。 俺たちはどんなことがあろうと、泣いてはいけないそうだ。どんな女がいようと、惚れてはならないそうだ。月を見ても、もの想い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・とを頼まれていたからでもあったのだが、しかし、また、このような機会を利用して、私がほとんど二十五年間かわらずに敬愛しつづけて来た井伏鱒二と言う作家の作品全部を、あらためて読み直してみる事も、太宰という愚かな弟子の身の上にとって、ただごとに非・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・不遇を尊敬したことがなかったか。愚かさを愛したことがなかったか。 全部、作家は、不幸である。誰もかれも、苦しみ苦しみ生きている。緒方氏を不幸にしたものは、緒方氏の作家である。緒方氏自身の作家精神である。たくましい、一流の作家精神である。・・・ 太宰治 「緒方氏を殺した者」
・・・ある解釈に従えば、私の偶然に関係した店の主人の仕打ちうや、それに対する私のした事や考えた事なんかは、すべてがただ小さな愚かな、時代おくれの「虚栄心」の変種かもしれない。 しかしともかくも私はちょっと意外な事に出逢ったような気がしてならな・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯の味は。一戸を構えると自から主・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 意識が此所まではっきりした時、私は一切のことを了解した。愚かにも私は、また例の知覚の疾病「三半規管の喪失」にかかったのである。山で道を迷った時から、私はもはや方位の観念を失喪していた。私は反対の方へ降りたつもりで、逆にまたU町へ戻って・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・私はあのお方の愚かなしもべでございます。いや、まだおわかりになりますまい。けれどもやがておわかりでございましょう。それでは夜の明けないうちに竜巻にお伴致させます。これ、これ。支度はいいか。」 一疋のけらいの海蛇が「はい、ご門の前にお・・・ 宮沢賢治 「双子の星」
・・・ こうして、各面で婦人の参加が積極的な、重大な意味をもって来るとき、日本の民法が主婦を、無能者ときめていることは、何たる愚かな滑稽であろう。その無能力者を、刑法では、そう認めず、処罰にあたっては、忽ち同一の主婦が能力者として扱われるとい・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・「おっしゃるとおり、名はわたくしにも申しませぬ」と、奴頭が言った。 大夫は嘲笑った。「愚か者と見える。名はわしがつけてやる。姉はいたつきを垣衣、弟は我が名を萱草じゃ。垣衣は浜へ往って、日に三荷の潮を汲め。萱草は山へ往って日に三荷の柴を刈・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ このごろのならいとてこの二人が歩行く内にもあたりへ心を配る様子はなかなか泰平の世に生まれた人に想像されないほどであッて、茅萱の音や狐の声に耳を側たてるのは愚かなこと,すこしでも人が踏んだような痕の見える草の間などをば軽々しく歩行かない・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫