・・・ もっとも向うの身になって見れば、母一人が患者ではなし、今頃はまだ便々と、回診か何かをしているかも知れない。いや、もう四時を打つ所だから、いくら遅くなったにしても、病院はとうに出ている筈だ。事によると今にも店さきへ、――「どうです?」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 不時の回診に驚いて、ある日、その助手たち、その白衣の看護婦たちの、ばらばらと急いで、しかも、静粛に駆寄るのを、徐ろに、左右に辞して、医学博士秦宗吉氏が、「いえ、個人で見舞うのです……皆さん、どうぞ。」 やがて博士は、特等室・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会心の微笑を想像せよ。恐らく今日の切迫した時代では到底思い泛べる事の出来ない畸人伝中の最も興味ある一節であろう。 椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべき・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・緑雨は恐らく最後のシャレの吐き栄えをしたのを満足して、眼と唇辺に会心の“Sneer”を泛べて苔下にニヤリと脂下ったろう。「死んでまでも『今なるぞ』節の英雄と同列したるは歌曲を生命とする緑雨一代の面目に候」とでも冥土から端書が来る処だった。・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・十四歳から十七、八歳までの貸本屋学問に最も夢中であった頃には少なくも三遍位は通して読んだので、その頃は『八犬伝』のドコかが三冊や四冊は欠かさず座右にあったのだから会心の個処は何遍読んだか解らない。信乃が滸我へ発足する前晩浜路が忍んで来る一節・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・私は自作『大化改新』において、額田女王との恋と、国家革新の使命とに板ばさみとなった青年中大兄皇子をしてついに恋愛をすてて政治的使命を選ばしめた。アレキサンダーがペルシアの女との恋愛のために遠征を忘れ、スピノーザが性的孤独のために思索を怠り、・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・徹頭徹尾会心の書というものはあるものではない。 私の場合でいえば、リップスの倫理学も私には充全な満足を与えてはくれなかった。かえって倫理学というものの限界と、失望とを私に与えた。私はこの書を反復熟読し、それを指導原理として私の実践生活を・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ これからも共産主義を信奉して運動を続けて行く積りか、それとも改心して、このような誤った運動をやめようと思っているか?」と訊く。それによって、判決が決まるわけである。そこへ来ると、傍聴に来ているどの母たちも首をのばして、耳をすました。 ・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・大事のまえの小事には、戒心の要がある。つまらぬ事で蹉跌してはならぬ。常住坐臥に不愉快なことがあったとしても、腹をさすって、笑っていなければならぬ。いまに傑作を書く男ではないか、などと、もっともらしい口調で、間抜けた感慨を述べている。頭が、悪・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・兄さんも、改心したんだ。本当だ。改心したんだ、改心したんだ。最後の願いだ。一生の願いだ。二百円あれば、たすかるんだ。なんとかして、きょうのうちに持って来てくれ。井の頭公園の、な、御殿山の、宝亭というところにいるんだ。すぐわかるよ。二百円でき・・・ 太宰治 「花火」
出典:青空文庫