・・・暗い狸穴の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥げ落・・・ 横光利一 「微笑」
・・・古びた自転車に乗って、郵便局から郵便物を受け取って帰る事もある。 エルリングの体は筋肉が善く発達している。その幅の広い両肩の上には、哲学者のような頭が乗っている。たっぷりある、半明色の髪に少し白髪が交って、波を打って、立派な額を囲んでい・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・彼らが浜から家へ帰る。そこにはもう貴さはない。彼らは波と戦って勇ましく打ち克つ。しかし敵手が人間になり、さらに自分の心になると、彼らはもう立派な戦士ではない。彼らの活動は真生の面影を暗示する。しかしそれは彼ら自身の生活ではなかった。彼らは低・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
・・・先輩の手法を模倣して年々その画風を変えるごとき不見識に陥らず、謙虚な自然の弟子として着実に努力せられんことを望む。 ――例外の一と二とに現われた二つの道が日本画を救い得るかどうか。それは未来にかかった興味ある問題である。・・・ 和辻哲郎 「院展日本画所感」
・・・ 人類の運命はやっと常軌に返る。 その先駆としての露国革命はきわめて拙く行った。しかし、露国の革命には五十年の歳月が必要だと言われているくらいだから、今の無知無恥な混乱も露国としてはやむを得ないかもしれぬ。同じ革命がドイツや英国に起・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
・・・世界史の大きい振り子は行き詰まるごとに運動の方向を逆に変えるが、しかしその運動の動因は変わらない。 それとともにもう一つ見落としてはならぬ変化は、社会組織の基礎として民衆の共同や協力を力説する思想が著しく栄えて来たことである。服従の代わ・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
・・・あるいはいつか孵る時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、おそらく彼の卵は孵らないでしょう。・・・ 和辻哲郎 「土下座」
・・・の区別に代えるとすれば、この「ある」と「ない」の区別は美術にとって最も根本的なものでなくてはならない。 この「真実」と「虚偽」、あるいは「ある」と「ない」の区別が、我々に芸術の real と unreal の区別を感じさせるのである。我・・・ 和辻哲郎 「『劉生画集及芸術観』について」
・・・塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫