・・・ 夫は、隣の部屋に電気をつけ、はあっはあっ、とすさまじく荒い呼吸をしながら、机の引出しや本箱の引出しをあけて掻きまわし、何やら捜している様子でしたが、やがて、どたりと畳に腰をおろして坐ったような物音が聞えまして、あとはただ、はあっはあっ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・嘉七は牡蠣のフライをたのんだ。これが東京での最後のたべものになるのだ、と自分に言い聞かせてみて、流石に苦笑であった。妻は、てっかをたべていた。「おいしいか。」「まずい。」しんから憎々しそうにそう言って、また一つ頬張り、「ああまずい。・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・筋子なぞを、平気でたべる人の気が知れない。牡蠣の貝殻。かぼちゃの皮。砂利道。虫食った葉。とさか。胡麻。絞り染。蛸の脚。茶殻。蝦。蜂の巣。苺。蟻。蓮の実。蠅。うろこ。みんな、きらい。ふり仮名も、きらい。小さい仮名は、虱みたい。グミの実、桑の実・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・そこいらの漁師の神さんが鮪を料理するよりも鮮やかな手ぶりで一匹の海豹を解きほごすのであるが、その場面の中でこの動物の皮下に蓄積された真白な脂肪の厚い層を掻き取りかき落すところを見ていた時、この民族の生活のいかに乏しいものであるかということ、・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・試みに西川一草亭一門の生けた花を見れば、いかに草と木と、花と花と、花と花器とのモンタージュの洗練されうるかを知ることができる。文人風や遠州好みの床飾りもやはりそうである。庭作りもまたそれである。かしこの山ここの川から選り集めた名園の一石一木・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ またこういう放電現象が夏期に多い事、および日中に多い事は周知の事実であるので、前述の時間分布は、これときわめてよく符合する事になる。 場所のおのずから定まる傾向については、自分は何事も具体的のことをいうだけの材料を持ち合わせないが・・・ 寺田寅彦 「怪異考」
・・・ 夏期瀬戸内海地方で特に夕なぎが著しいのはどういうわけかと思って調べてみると、瀬戸内海では、元来どこでもいったいに強くない夏の季節風が、地勢の影響のために特に弱められている。そのために海陸風が最も純粋に発達する。従って風の変わり目の無風・・・ 寺田寅彦 「海陸風と夕なぎ」
・・・先ず初めは、浴槽の水を掻き廻さないで、水面二、三寸のところへ寒暖計の球をさしこんで、所定の温度に達した頃に報知して来るのだから、かき廻さないで飛び込めば上の方は適温だが、底の方はまだ水である。掻き交ぜれば、ぬるくてふるえ上がってしまう。また・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・高等学校時代に夏期休暇で帰省する頃にはもういつも盛りを過ぎていた。「二、三日前までは好いのがあったのに」という場合がしばしばあった。「お銀がつくった大ももは」という売声には色々な郷土伝説的の追憶も結び付いている。それから十市の作さんという楊・・・ 寺田寅彦 「郷土的味覚」
・・・ 三 熱帯魚 百貨店の花卉部に熱帯魚を養ったガラス張りの水槽が並んでいる。暑いある日のことである。どう見ても金持ちらしい五十格好のあぶらぎった顔をした一人の顧客が、若い店員を相手にして何か話している。水槽につけた紙札・・・ 寺田寅彦 「試験管」
出典:青空文庫