・・・遠い村に家のある生徒は、半農民の小ざっぱりした家へ下宿し、そのために二軒の下宿屋さえ有るのである。夏季講習が折々この村の中学で行われる時は、村中が急に、さざめき渡るのである。 それだから、彼等にとって生徒はまことに有難いものに写るので「・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・額際から顱頂へ掛けて、少し長めに刈った髪を真っ直に背後へ向けて掻き上げたのが、日本画にかく野猪の毛のように逆立っている。細い目のちょいと下がった目尻に、嘲笑的な微笑を湛えて、幅広く広げた口を囲むように、左右の頬に大きい括弧に似た、深い皺を寄・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・と思った。花卉として東京でいつ頃から弄ばれているか知らない。とにかくサフランを売る人があると云うことだけ、この時始て知った。 この旅はどこへ往った旅であったか知らぬが、朝旅宿を立ったのは霜の朝であった。もう温室の外にはあらゆる花と云う花・・・ 森鴎外 「サフラン」
・・・彼の爪が勃々たる雄図をもって、彼の腹を引っ掻き廻せば廻すほど、田虫はますます横に分裂した。ナポレオンの腹の上で、東洋の墨はますますその版図を拡張した。あたかもそれは、ナポレオンの軍馬が破竹のごとくオーストリアの領土を侵蝕して行く地図の姿に相・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫