・・・おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・たとえ、両国橋、新大橋、永代橋と、河口に近づくに従って、川の水は、著しく暖潮の深藍色を交えながら、騒音と煙塵とにみちた空気の下に、白くただれた目をぎらぎらとブリキのように反射して、石炭を積んだ達磨船や白ペンキのはげた古風な汽船をものうげにゆ・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・店は熔炉の火口を開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側まではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強て方向を変えさせられた風の脚が意趣に砂を捲き上げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・……焚つけを入れて、炭を継いで、土瓶を掛けて、茶盆を並べて、それから、扇子ではたはたと焜炉の火口を煽ぎはじめた。「あれに沢山ございます、あの、茂りました処に。」「滝でも落ちそうな崖です――こんな町中に、あろうとは思われません。御閑静・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ その時姉が、並んで来たのを、衝と前へ出ると、ぴったりと妹をうしろに囲うと、筒袖だが、袖を開いて、小腕で庇って、いたいけな掌をパッと開いて、鏃の如く五指を反らした。 しかして、踏留まって、睨むかと目をみはった。「ごめんよ。」・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・ 予はふかくこの夢幻の感じに酔うて、河口湖畔の舟津へいでた。舟津の家なみや人のゆききや、馬のゆくのも子どもの遊ぶのも、また湖水の深沈としずかなありさまやが、ことごとく夢中の光景としか思えない。 家なみから北のすみがすこしく湖水へはり・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分で、時偶市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。 なお更住居には意表外の数寄を凝らした。地震で焼けた向島の梵雲庵は即ち椿岳の旧廬であるが、玄関の額も聯も自製なら・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ もとよりその頃は既に身うけされて、朝鮮の花街から呼び戻され、川那子家の御寮人で収まっていたお千鶴は、「――ほかのことなら辛抱できまっけど、囲うにこと欠いて、なにもわての従妹を……」 と、まるで、それがおれのせいかのように、おれ・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・……彼らの美酒佳肴の華やかな宴席を想像しながら。が土井は間もなく引返してきた。「どうか許してくれたまえ」と、私は彼に嘆願した。しかし彼は聴かなかった。結局私は彼に引張られて、下宿を出た。 会場は山の手の賑やかな通りからちょっとはいった、・・・ 葛西善蔵 「遁走」
出典:青空文庫