・・・しばらくしてどれかが下降し始めると他のものもまた相前後して下降する。お互いに合図するのかまねをするのか、それとも外界の物理的化学的条件に応じて機械的に反応しているのか、どちらだか自分にはわからない。ただ同じ魚の群れが共同的の動作をするという・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・紺碧のナポリの湾から山腹を逆様に撫で上げる風は小豆大の砂粒を交えてわれわれの頬に吹き付けたが、ともかくも火口を俯瞰するところまでは登る事が出来た。下り坂の茶店で休んだときにそこのお神さんが色々の火山噴出物の標本やラヴァやカメーの細工物などを・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・またチェリュスキン岬とレナ河口とにも観測所を設け、後者の一部は永久的のものにする。一方ではレニングラードからランゲル島へかけベーリング海近くまでも飛行機を飛ばし空中写真測量で北シベリアいったいの地図を作る事になっている。なおそのほかに探険船・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・卵から出た幼虫は親の据え膳をしておいてくれた佳肴をむさぼり食うて生長する、充分飽食して眠っている間に幼虫の単純なからだに複雑な変化が起こって、今度目をさますともう一人前の蜂になっているというのである。 ある蜘蛛が、ある蛾の幼虫であるとこ・・・ 寺田寅彦 「簔虫と蜘蛛」
・・・縁側に出て見ると小庭を囲う低い土塀を越して一面の青田が見える。雨は煙のようで、遠くもない八幡の森や衣笠山もぼんやりにじんだ墨絵の中に、薄く萌黄をぼかした稲田には、草取る人の簑笠が黄色い点を打っている。ゆるい調子の、眠そうな草取り歌が聞こえる・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・ダイアモンドを掘り出せば加工はあとから出来るが、ガラスはみがいても宝石にはならないのである。 現代のように量的に進歩した物理化学界で、昔のような質的発見はもはやあり得まいという人があるとすれば、それはあまり人間を高く買い過ぎ、自然を安く・・・ 寺田寅彦 「量的と質的と統計的と」
・・・ 朝の中長崎についた船はその日の夕方近くに纜を解き、次の日の午後には呉淞の河口に入り、暫く蘆荻の間に潮待ちをした後、徐に上海の埠頭に着いた。父は官を辞した後商となり、その年の春頃から上海の或会社の事務を監督しておられたので、埠頭に立って・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・然るに今日に至っては隅田川の沿岸には上流綾瀬の河口から千住に至るあたりの沮洳の地にさえ既に蒹葭蘆荻を見ることが少くなった。わたくしはかつて『夏の町』と題する拙稾に明治三十年の頃には両国橋の下流本所御船倉の岸に浮洲があって蘆荻のなお繁茂してい・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・村はずれの小道を畑づたいにやや山手の方へのぼり行けば四坪ばかり地を囲うて中に範頼の霊を祭りたる小祠とその側に立てたる石碑とのみ空しく秋にあれて中々にとうとし。うやうやしく祠前に手をつきて拝めば数百年の昔、目の前に現れて覚えずほろほろと落つる・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・けれども一日の旅行を終りて草臥れ直しの晩酌に美酒佳肴山の如く、あるいは赤襟赤裾の人さえも交りてもてなされるのは満更悪い事もあるまい。しかしこの記者の目的は美人に非ず、酒に非ず、談話に非ず、ただ一意大食にある事は甚だ余の賛成を表する所である。・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
出典:青空文庫