・・・軽く開いた唇は熱い息気のためにかさかさに乾いた。油汗の沁み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二前の方に押し進もうとした。・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・――杉垣の破目へ引込むのに、かさかさと帯の鳴るのが浅間しかったのである。 気咎めに、二日ばかり、手繰り寄せらるる思いをしながら、あえて行くのを憚ったが――また不思議に北国にも日和が続いた――三日めの同じ頃、魂がふッと墓を抜けて出ると、向・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・切禿で、白い袖を着た、色白の、丸顔の、あれは、いくつぐらいだろう、這うのだから二つ三つと思う弱々しい女の子で、かさかさと衣ものの膝ずれがする。菌の領した山家である。舞台は、山伏の気が籠って、寂としている。ト、今まで、誰一人ほとんど跫音を立て・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・ ごんごん胡麻は老婆の蓬髪のようになってしまい、霜に美しく灼けた桜の最後の葉がなくなり、欅が風にかさかさ身を震わすごとに隠れていた風景の部分が現われて来た。 もう暁刻の百舌鳥も来なくなった。そしてある日、屏風のように立ち並んだ樫の木・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・女はそれを見ると顔をふって、「かさかさのパンをもった人よ、 私はめったに、つかまりはしませんよ。」と言うなり、すらりと水の下へもぐってしまいました。 ギンは、がっかりして、牛をつれてしおしおと家へかえりました。そして・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・赤ちゃんの背中は、かさかさ乾いて、そうして痩せていました。けれども私は仲間の紙幣にいいました。 「こんないいところはほかにないわ。あたしたちは仕合せだわ。いつまでもここにいて、この赤ちゃんの背中をあたため、ふとらせてあげたいわ」 仲・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合いの、幽かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私・・・ 太宰治 「父」
・・・その代り秋風が立ち始めて黍の葉がかさかさ音を立てるころになると世の中が急に頼もしく明るくなる。従って一概に秋を悲しいものときめてしまった昔の歌人などの気持が自分にはさっぱり呑みこめなかったのであった。それが年を取るうちにいつの間にか自分の季・・・ 寺田寅彦 「五月の唯物観」
・・・戸の外で椶櫚の葉がかさかさと鳴っている。そんなときにこの行燈が忠義な乳母のように自分の枕元を護っていてくれたものである。 母が頭から銀の簪をぬいて燈心を掻き立てている姿の幻のようなものを想い出すと同時にあの燈油の濃厚な匂いを聯想するのが・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いながら、あるいておりました。「ぜんたい、ここらの・・・ 宮沢賢治 「注文の多い料理店」
出典:青空文庫